昭和の銭湯であの子に出会った

1 いすゞ湯

 お風呂屋さんに行ってきなさい、という母の声を無視して、ぐずぐずとテレビの前にいた。南沙織ちゃんの唄が次の次くらいに始まる。それまではなんといわれようと動くつもりはなかった。
 クラスで人気の真理ちゃんもかわいいけれど、沙織ちゃんの大人っぽい顔とか、まっすぐな黒い髪が私は大好きだ。あまりみんなからちやほやされていないようなところも、自分だけがわかっている感じで気に入っている。
 男の歌手の唄が終わった。こちらも女子の間では大人気だけれど、私にはピンと来ない。クラスの男子でさえ何考えているかわからないのに、大人の男の人はどんな生き物なのか想像もつかず、まして好きになるとか、全然理解できなかった。
 うちに父がいないせいかもしれない。両親は私がまだ小さいころ離婚して、私と弟は母に引き取られた。めったに会わない親戚のおじさん以外、身近にいる大人の男の人は学校の先生くらいだ。マンガではすてきな男の子が出てくるが、その憧れを引き受けてくれるような現実の男は見たことがない。
 沙織ちゃんが登場した。今日もとてもかわいい。声があまり高くなくて、女の子っぽくないところもすてきだ。私は声が高くて、話しているとすぐに「キンキン」するらしくて、よく母に「もう少し落ち着いて話しなさい」といわれる。でもそういう母の声も高いほうだから、大人になっても私の声はあまり変わらないかもしれない。女子に声変わりがあるのかどうか知らないけれど。
 沙織ちゃんの唄が終わると、母に叱られる前に立ち上がり、家を出た。
夏の日は長く、外はまだ明るかった。洗面器と着替えを入れたビニール袋を自転車の前かごに乗せて、「いすゞ湯」に向かった。ゆっくりとペダルを漕ぎながら、沙織ちゃんの歌を口ずさむ。伴奏代わりにチリン、とベルを鳴らした。
 6年になってから、お風呂屋さんには、できるだけひとりで行くようにしていた。母に体を見られるのが気恥ずかしくなったからだ。
母は「親子で何恥ずかしがっているのよ。変な子ねえ」と笑ったが、母は仕事でおそくなることもあったから、早い時間であれば私が自力でお風呂屋さんに行くことを止めはしなかった。ただし、自分が遅くなりそうなときは、弟を一緒に連れて行くように言われた。今年小学校に入った弟は生意気にもひとりで男湯に入るが、自分だけではお風呂屋さんには行かせてもらえない。
 弟はものすごい早風呂なので、いっしょのときはこちらも急ぐことになるが、ひとりの日はゆっくりと入れる。母は、そろそろ風呂付きの部屋に引っ越そうか、と言っているが、お風呂屋さんは遠くはないし、私は大きな湯船でゆったりできるのが好きなので、しばらくは今のままでいいと思っている。
 お風呂屋さんは、空いていた。番台でお金を払い、ロッカーに荷物を入れた。シャツのボタンに指をかけたとき、誰かに呼ばれたような気がして、浴室のほうに顔を向けた。
見たことのある子がいた。驚いて、体の動きが止まる。
 あの子は確か、ええと、隣のクラスの、帆波さん、だったかな。
 顔だけは知っているが話したことのない女子。その子が、ちょうど浴室から出たところで、バスマットの上で体を拭いていた。
 私は顔をそむけて、ロッカーの前で固まった。服を脱ごうとしても指が動かない。どうしよう、と思い、私は行きたくもないトイレに向かった。
 トイレに入っても、心臓がどきどきしていた。これまで、このお風呂屋さんで学校の友だちに会ったことはなかった。たいていの家にはお風呂があるし、ここに通っている子たちもたぶん微妙に来る時間がずれているから、お互いに顔を合わせずにすんでいたのだろう。それが、なんで今日に限って。
 私は顔に手をあててうつむいた。一瞬だったが、帆波さんの裸を見てしまった。膨らんだ胸、そして、股を飾っている小さな黒い影。
 母といっしょにお風呂に入りたくないと思ったのは、私にも少しだけ発毛が始まったからだ。でもよく見ないとわからない程度のうっすらしたもので、大人の女の人とは全然ちがう。お風呂屋さんで大人の女の人のを見ても、小さいときから、それこそ母のものも含めて目にしてきたから、珍しいともなんとも思わなかった。
 だが、隣のクラスの同い年の女子のそれは、大人の女の人のような黒々したものではなく、私のような綿毛のようなものとも違った。絵の具の筆先のような、量は多くないけれどしっかりとした黒い毛。そのイメージがまぶたの裏に焼き付いて消えない。
 トイレの戸を叩かれて、私は「はい」といって水を流し、外に出た。
ノックしたおばさんにじろじろと見られているような気がして、下を向いたまま脱衣所にもどると、帆波さんの姿はなかった。
 もう帰ったのだろう。私は、のろのろと服を脱ぎ、お風呂に入った。いつも気にならないほかの女の人の黒い毛に目が行って困った。
 翌日、学校で帆波さんの姿を見かけたが、隣のクラスでなんの接点もないし、声をかけるきっかけもない。服を着ている彼女は、元気でさっそうとしていた。猫のような、レモン型の目。かわいい子だったんだ、と私は帆波さんを見直した。昨日のお風呂屋さんでの彼女の裸を思い出しそうになり、いそいでほかのことを考えようとしたが、うまくいかなかった。
 その日の夜は弟といっしょにお風呂屋さんに行った。冬場なら1日おきのこともあったが、夏はお風呂屋さんの定休日以外は毎日出かける。弟を連れて行くときは歩いて行くので、私いつもより早めに家を出た。昨日と同じ時間に入りたかったからだが、もちろん母にも弟にもそんなことは言わなかった。
 男湯と女湯で別れるとき、弟に、出たら番台のおばさんに声をかけて、と言い聞かせた。弟は自分が出ると、「ねえちゃん、出たよー」と男湯の脱衣所から大きな声を出す。ほかにもそうやって脱衣所の壁越しにお互いに合図する客がいるので、特に恥ずかしいことでもないが、今日は弟に大きな声で呼んでほしくなかった。
 脱衣所に入って中を見渡すと、すぐに帆波さんを見つけた。
今日はもう上がって服を着て、ドライヤーで髪を乾かしていた。鏡越しに私と目が合い、こちらを振り返った。私はどぎまぎして、それでも小さくおじぎした。
 帆波さんは不思議そうな顔で私を見て、それからふいっと鏡に向き直った。誰だろうこの子、と思っているのだろう。私は学校で有名人というわけではない。
 私は時間をかけて服を脱いだ。できれば帆波さんが帰ってから裸になりたかった。でも、いつまでも脱衣所にぐずぐずしていられない。今日は弟もいっしょなのだ。
 帆波さんに背中を向けて服を脱ぎ、ロッカーに鍵をかけた。いつもはそんなことをしないのにタオルで体の前を隠して浴室に向かった。ちらっと帆波さんを見たら、鏡越しに自分を見ているような気がして、私はあわてて顔をそむけて浴室の扉を開けた。
 それからしばらく、帆波さんをお風呂屋さんで見かけることはなかった。彼女の家のお風呂がこわれたかなにかで一時的に利用していただけなんだ、と思うと少しさびしい気がしたが、それ以上は深く考えないようにしていた。自分が、同じ小学校の女子の裸を見たがっている、とは認めたくなかった。

 久しぶりに母と弟、三人でお風呂屋さんに行った。
 私と母が並んで体を洗っていると、目の前の鏡に帆波さんが映った。心臓が止まりそうになった。帆波さんは私たちの後ろを通って湯船に入った。私はいつもよりことさら脚を閉じ、背中を丸めて体を洗った。
「ゆきちゃん、背中洗ってよ」頭を洗い終わった母がスポンジを寄越した。
 私は自分の体の泡をおとし、スポンジに石鹸をつけて母の背中にこすりつけた。
「あー、気持ちいい。もっと強くこすって」
「疲れちゃうよ」背中をこする手に力をこめながら、鏡に映る湯船に目をやった。
 帆波さんが、こちらを見ている。見まちがいではなく、湯船につかりながら、猫のような目を私たちに向けていた。私は後ろから胸をつかまれたような気持ちになり、息を止めた。湯船にいる女の子を忘れようとして、母の背中をこする手に力をさらに入れた。
「いたあい、そんなにしたらいくらなんでも痛いじゃない。皮がむけちゃう」母が背中をよじって私の手から逃げた。
「あ、ごめん。ごめんね」慌ててスポンジを離し、母の背中にお湯をかけた。赤い筋ができていた。
「ものごとには加減ってものがあるのよ……でもありがと。久しぶりにすっきりしたわ。さ、温まって上がろう。やっちゃんが出ているかもしれない」
「私、先に上がるね。あいつ待ってるとかわいそうだから」
 私は手早く体の水気を拭き、湯船を見ないようにして浴室を出た。背中から帆波さんが目でおいかけているような気がして、お尻をタオルで隠したかった。お風呂でそんなことしている人を見たことがないけれど。
 脱衣所で振り返ると、母が湯船に入ろうとしていた。その姿を、帆波さんがじっと見ていた。母は、ごめんなさいね、とか何かいうように口を動かし、帆波さんの横から湯船に脚を入れた。帆波さんが体を動かし、場所を開けた。その間も、ずっと母を見ているようだった。
 なんだ。私を見ていたわけじゃないのか。
 胸の奥がちくん、となったが、帆波さんはなんで母を見るのだろうと少し不思議な気がした。母は、まあふつうのおばさんだ。特に太っているわけではないが、モデルのような美女ではない。このお風呂屋さんにはいくらでもいるタイプだ。まさか選んで母の裸を見たいということもないだろうし。
 帆波さんみたいなきれいな子を見たいなら、わかるけど。
 服を着ながら、浴室を見ると、帆波さんはどこかの洗い場に座ったのか、姿を見失った。どこだろう、と思っていたら、
「かあちゃん、ねえちゃん、おれ!出たよ」と弟が男湯の脱衣所で叫んだ。
 思わず「母さんまだだから、待ってて!」と返事をしてしまった。番台のおばさんが笑っていた。
 まもなく母も出てきた。
「髪は家で乾かすわ、やっちゃん待ちくたびれただろうし」
 さっさと帰り支度をする母親といっしょに洗面道具を袋にしまった。
 もう少しだけ、いられないかな。帆波さんが上がってくるまで。そう思ったが、自分だけ居残る理由は思いつかなかった。

2 夏休み

 夏休みも後半に入った日、神社の祭りがあった。
 私はクラスの中山さん、佐藤さんと一緒に出かけた。屋台をのぞいたり、踊れもしない盆踊りのまねごとをしてみたり、それに疲れたら拝殿の前の石段に座って天地真理ちゃんや南沙織ちゃんの新曲の練習をしたりしていた。
「あれ、中山じゃん。佐藤もいるんだ」
 私の名前は呼ばずに、クラスの男子がふたり、私たちの前に立った。
「何してんの」
「田原と熊木か、ないしょだよ」中山さんが私と佐藤さんに目配せした。
 何も内緒話などしていなかったが、私たちは示し合わせたように笑って口をつぐんだ。
 つまんねえの、とか言って立ち去るかと思ったら、ふたりの男子は私たちの前にしゃがみこんでしまった。
「なんだよ、教えろよ」田原がにやにや笑う。「秘密の話って興味あるじゃん」
 学校で男子はこんなに気安く女子に話しかけてはこない。お祭りの雰囲気や、夏休みの解放感で浮かれているのか。
 それは私たちも同じだったようで、中山さんが、「じゃあ、あんたたちの秘密も教えてよ」と言い出した。
「秘密って、どんな」
「好きな子とか」
「げ」田原と熊木が顔を見合わせた。
「なんでそんなことおまえらに教えなきゃならないんだよ」
「別にいいよ、教えてくれなくても。わたしたちも何もいわないから」
 中山さんが男子の顔に挑戦的な視線を送る。隣の佐藤さんが意味ありげに私を見た。
 中山さんは、目の前にいる田原のことを好きらしい。いつだったか佐藤さんがそう教えてくれた。中山さんは、田原が自分のことを好きだと言ってくれると期待しているのだ。確かに中山さんはクラスの中でもかわいいほうだから、自信を持つのはわかる。でも、もし田原が別の女の子を好きだといったらどうするつもりなんだろう。
 男子ふたりはしばらくもじもじしていたが、先に熊木が「クラスのやつに言わないか?」と前置きして、ここにはいないクラスの女子の名前をあげた。
「なるほどね。あの子人気あるもんね」
 私は中山さんや佐藤さんの名前が出るのではないかとどきどきしていた。自分の名前を言われるかもしれないとは少しも思わなかった。自分のような地味な女子を好きになるわけがない。
「あんたは」中山さんが尋問するような口調で田原に促した。笑顔をつくっているが緊張しているのがわかる。
「おれは……帆波。隣のクラスの」
 中山さんが息を飲んだような気がしたが、息を飲んだのは私だった。
「へえ、そうなんだ」中山さんの声の調子は普通に聞こえた。
「誰にも言うなよ、ぜったい」田原が怒っているような声を出した。
「知らない」中山さんは立ち上がり、佐藤さんと私に「行こう」と声をかけて歩き出した。
「おい、約束だからな!」
 田原たちを置いて、私は中山さんの後を追いかけた。
 神社を出るまで、三人とも黙っていた。
 は、と中山さんが大きく息を吐き、びくっとなった佐藤さんがそれをとりつくろうように中山さんに「帆波さんって、知ってる?」と訊いた。
「どうかな。よく知らない。隣のクラスの子だし」
 中山さんがぶっきらぼうに答えて、私を見た。
 私は急いで首を振った。知っているとは口にできなかった。お風呂屋さんでいっしょになったことがある、なんて、言えるわけがない。
「ねえ、あんたたちの好きな男子ってだれ?」
 中山さんが私たちの顔を交互に見た。私がすぐに返事ができずにいると、佐藤さんは、クラスの中で運動がいちばんできる男子の名前をいった。
「そうか。そっちはまだ可能性あるね。あたしは失恋しちゃった。たった今ね」
 中山さんが夜空を見上げた。うそみたいだが、涙を浮かべている。
「そんなのまだわからないじゃない。田原の片想いかもしれないし」佐藤さんが慰めた。
「いいんだ、もう。思われていないことがわかったから。しょうがないよ」
 私たち小学生の恋に、戦うとか、奪う、などという形はない。好きになった子に好きだと言われて、両想いになれればハッピーエンド。それ以外はみんな失恋だ。中山さんのようにかわいい子でも、想う人からは好かれないことがある。それで恋はおしまい。
「それで、ゆきは?誰が好きなの?」中山さんが私に怒ったような目を向けた。
 気持ちを惹かれる男子はいなかったが、好きな人はいない、と言える雰囲気ではなかった。誰でもいいから名前をあげようと思ったが、出てこない。
それで、「……私も失恋しちゃった」と言ってしまった。
「は? ゆきも田原が好きだったの?本当に?」
 中山さんがちょっとうれしそうな顔になった。仲間がいた、と思ってくれたのだろうか。
「そっかあ。じゃあ、ショックだったよねえ」
「私は、まだそれほど好きってところまでいってなかったから。しかたないかなって」
 相手は田原のほうじゃないけど。自分でそう思って、私は何を考えているのだろう、と不思議になった。私は、誰に失恋したのだ。田原でなければ。
「あいつ、ちょっと調子に乗ってるよ。クラスの中に美女がいるのに、わざわざよそのクラスの子を好きになるなんて」
 中山さんは元気を取り戻したようで、さかんに田原の悪口をいいはじめた。あいつ、頭いいと思っているけど実はクラスの小野くんのほうが成績がいい、とか上級生の女子から五年生のときに告白されてどうしたらいいかわからなくて逃げ出したことがある、とか。ゆきは知ってた?といわれて、私は首を振った。
「まあ、顔はそこそこいいから、どうしてもそっちから好きになっちゃうんだよね。ゆきも、そうだった?」
 私は、そうだね、とあいまいに笑った。田原のことは、実はクラスにいる男子、という以外、ほとんど知識がない。頭がいいというのも知らなかったし、顔がいいかどうか、いわれてみればそうかも、と思う程度で、実際のところは好きでもなんでもない。
 ただ、田原が帆波さんを好きだということだけが私の関心を引いた。彼女を好きだという男子がいたことが、私にはとても大事に思えた。



 二学期が始まった日、教室の黒板に大きな相合傘が書かれた。並んでいるのは、田原と帆波さんの名前だった。登校してきてそれを見た田原は怒りくるって黒板拭きでチョークを消し、その姿を冷やかした男子につかみかかって教師に止められた。
 田原といっしょにいた熊木がばらしたのか、それとも私たち以外に田原の告白を聞いた人間がいたのかわからなかったが、私は帆波さんが気になった。もし両想いならいいけれど、彼女が田原のことをなんとも思っていないとしたら、こういう噂話は彼女には不愉快だろう。それとも、噂をきっかけに田原に恋してしまうなんてことがあったりするのだろうか。
 私の呑気な心配は放課後に吹っ飛んだ。下校の挨拶が終わると、田原が「約束やぶりやがって」と私に詰め寄ってきたのだ。
「私、知らない」小学生であっても、男子の本気で怒った顔は怖かった。
「うそつくな。熊木も、中山も佐藤もちがうっていった。中山から聞いたぞ。おまえ、おれに失恋して、やきもちやいたんだろうって。おまえみたいなブス、だれが好きになるか」
 この人は何を言っているのだろう。私は呆然とした。私がばらした?何のために?
 さすがに女子相手に直接手は上げなかったが、田原は私の机をがん、と蹴飛ばした。私は身をすくませた。体が震え、涙が出てきた。誰か、助けて、と心の中で叫んで教室を見回した。
 中山さんの姿が見えたので、声をかけようとしたら、中山さんは顔を背けて教室を出て行った。あとを佐藤さんが追いかけた。
田原は私を睨むと、怒りを抑えつけるように息を吸い込み、教室を出た。ほかのクラスメートは誰も私に声をかけてこなかった。私は席から立ち上がることができず、みんなが下校するまで教室に居残った。
 翌日から、私は教室の中で誰からも無視されるようになった。休み時間も、給食のときもだれも話しかけてこない。中山さんと佐藤さんは、私などはじめからいないかのように、ふたりだけでおしゃべりをしていた。
 田原がいないときを狙って、一部の男子が「あれえ、旦那さんがいないよ」とか「ほら、恋人を追いかけなきゃ」と私を冷やかした。最初は、やめてと言えたが、いやがればさらに言葉を浴びせられ、私は何も言い返せなくなった。
 私と噂されることを、田原は心底憎んでいるようだったが、火に油を注ぐように、クラスメートの一部は私と田原の関係を囃したてた。
 私とは口を一切きかなくなった中山さんは、いつのまにか私と田原をくっつける音頭とりをするようになった。田原が嫌がれば嫌がるほど、中山さんはむきになり、ついにクラス委員の選出投票にまで根回しをして、私と田原はクラス委員のペアにされてしまった。
 クラス委員など私は一度もしたことがない。人前で司会をしたり号令をかけたりは苦手だし、「クラスをまとめる」仕事が自分にできるとは夢にも思わなかった。
 私の性格を知っていたのだろう。担任の先生は「平田はやれるか?」と気にかけてくれた。私は黙って下を向いていた。やれません、と拒否をすることさえ、私にはできなかった。
 次の日から、学校を休んだ。
 母は、私が学校へ行かなくなったことにしばらく気がつかなかった。朝、学校へ行くふりをして家を出て、公園で時間をつぶして、母が出勤した頃を見はからって私は家に戻った。それから、ひたすら布団をかぶって夕方になるのを待ち、母が帰ると起き上がって宿題をするふりをした。
 学校からかもしれない電話があったが出なかった。夕方、誰かが部屋を訪ねて来たが、こちらも居留守を使った。
 いじめとしては、程度の軽いもので、こんなことぐらいで学校を休むのは、甘いと言われるのかもしれない。でも、小学生の私には、心を許せる友だちもいなくたったひとりぼっちの女子には、学校で戦うエネルギーはなかった。
 結局、私の不登校は、小一の弟に持たされた手紙で母に伝えられた。
 母は当然怒り、心配もしたが、私は頑として学校へ行かない理由を言わなかった。
仕事を休んで学校へ行った母は担任の先生と面談し、私がクラス委員に選ばれてから学校へ行かなくたったと聞かされた。
「クラス委員選びはやり直してくれる、と先生はおっしゃったけど、ゆきはそれでいいの?」学校から帰ってきた母にいわれ、私はうなずいた。
 母はすぐに学校へ電話をした。明日にでもクラスで投票する、と先生は言ったそうだ。
 もしかすると先生は、私と田原や中山さんたちのトラブルに気づいていたかもしれないが、母には伝えなかったらしい。
 クラス委員をやらずにすむなら学校へ行く、というのはただのわがままだと思われただろうけれど、私は学校へ行くことにした。さぼることにも疲れていた。
 学校に行ってみると、男子は田原のままで、女子の新しいクラス委員に、中山さんが選ばれていた。
 田原とコンピで、こちらもカップル誕生、といわれているようだが、田原は冷やかされて怒るどころか、「よせよ。中山がかわいそうじゃないか」などとまんざらでもなさそうな顔をしている。
 中山さんも、「あたしには関係ない」といいつつ、明らかにうれしそうにクラス委員の仕事をこなしていた。
 田原はいつのまに中山さんと仲良くなったのだろう、と思ったが、自分を放っておいてくれるならそれでよかった。
 先生から言われたのか、新しいクラス委員に遠慮していたのかはわからないが、私と田原の関わりを蒸し返すような人はおらず、私のクラス委員選出はなかったこと、になっていた。
 中山さんも佐藤さんも、そのほかの女子も私に話しかけてこないまま、私はひとりになってしまったが、やりたくもないクラス委員の仕事をやったり、理不尽な冷やかしを受けてそれが原因で男子に怒鳴られたりするよりよっぽどましだった。どうせもうじき小学校は卒業するのだ。
 私は、残りの小学校生活を、マンガや南沙織ちゃんのグラビアを眺めることで過ごした。それでも家で暇を持て余したときは、人からは変人扱いされるかもしれないが、ひとりで勉強した。中学生向けの参考書をお小遣いで買って、ゆっくりとページを進めた。そうすることで、早くこのいまいましい小学校時代と決別したかった。
 唯一気がかりだったのが、噂の一方の当事者だった帆波さんだったが、クラスがちがうと何の情報も入ってこないし、話すことはないままだった。
 学校を休んでいるとき、間が悪いというか、タイミングなんか関係ないのか、あるいは精神的に動揺したのが影響したのか、生理が始まった。母が、いい機会かも、と言って、私たちはお風呂のついているアパートへ引っ越した。お風呂屋さんに行くことはなくなり、学校以外の場所で帆波さんと偶然会うこともなかった。

3 中学校

 中学に入って、私は自分に戒めを課した。
 絶対に友だちと恋愛の話はしない。自分の恋に関心のある人間がはたしているのか、自意識過剰といえばそのとおりだが、小学校で受けた仕打ちは忘れがたかった。もし中学でいじめのターゲットにされたら、どんなひどい目にあうか想像もしたくない。自分の通う中学でそうした噂は聞かないが、ニュースではいじめで自殺した子の話がしょっちゅう流れている。
 自分を守るために、私は勉強にも力を入れた。成績優良者は、一目置かれる。教師の覚えもいいはずだ。
 入学前に予習していたおかげで、中学に入っての勉強は苦にならず、上位の成績をとるのは容易だった。クラスのトップになる必要はない。だいたい、五番手くらいにいて、たとえば国語だけは一番、そんな位置が私にはもっとも安全に思えた。
 調整しようとしていたわけではないが、テストでは自然とそんな順位をキープしていた。どこのクラスにも信じられないくらい頭がいい子とか、負けずぎらいで強烈に勉強を頑張る人はいるのだ。
 一度だけ、期末テストの社会で満点をとってしまい、教師に名前を呼ばれたとき、いつもトップをゆずらない男子からすごい目でにらまれた。それ以来、国語以外の科目では、必ずひとつふたつわざと誤答を混ぜるようにした。ときどき、テストを返されるときに、「惜しかったな」と言われることがあったが、あまり悔しそうな顔をせず、なんでこの答えを書いたんだろう、あるいは、なんでこの答えがちがうんだろう、というように首をかしげると、教師からそれ以上疑われるようなことはなかった。
 同じ中学に進学した帆波さんとは、クラスは離れた。残念なような、ほっとするような気持ちだった。
 帆波さんは、中学に入るとものすごく垢ぬけた美少女になった。それも体育会系の。身長は平均より少し高く、すらりとして、ショートにした髪がよく似合う。バレー部に入ってきびきびとボールを追う姿は本当に絵になった。
 学校の方針で、生徒は全員どこかのクラブに入ることになっていたので、私は園芸部に入った。特に花が好きなわけではなかったが、運動には縁がなく、楽器や芸術にもそれほど関心がなかったので、消去法で残ったところだった。それが案外いごこちよかったのは、男子部員がおらず、本当に花が好きな優しい子が多かったことによる。
 園芸部を選んでよかったことはもうひとつあった。放課後、花壇の手入れをしながら、バレー部の練習を見ることができたのだ。
 バレー部は、週の半分を体育館、残りは校庭のコートで練習していた。
 野球部やサッカー部の練習場所にバレーボールが転がっていかないよう、主に下級生がコートの周りを囲って球拾いをする。一年生の帆波さんも当然そこにいるのだが、花のある子は球拾いをしていても目立った。
他の部員と一緒に声を出し、取りそこなったボールがコートからそれて転がると急いで追いかける。やっていることは地味なのに、帆波さんだと絵になった。バレーボールの技術も、たぶん上級生から比べると格段に劣っていると思う。一年生が練習する番になり、帆波さんがボールをレシーブするときにミスをして返しそこない、すみません、といって列を離れる。そういう姿にはらはらし、うまくボールを返して、先輩からナイス、と帆波さんが声をかけられると、私もうれしくなる。がんばっているね、がんばれ、と心で声援を送る。
「手が止まってるよ」と園芸部の先輩に声をかけられた。「どこ見てんの。もしかしてサッカー部?」
 花壇を挟んで私の向かいで作業していた先輩が、振り返って校庭を眺めた。校庭ではいくつもの部が練習している。
「へえ、平田ちゃんも狙っている人がいるんだ」
 誰なの、と訊かれたら何と言ってごまかそうか。だまって作業を続けたが、先輩はそれ以上突っ込んでこずに作業に戻った。
「背中向けてると、ボールが飛んできてもわからないから、こわいんだよね」先輩がそう言った矢先に、
「すみませーん」と声がして、先輩のすぐ横にボールが転がってきた。
「うわっ」先輩が立ち上がった。
 転がってきたのはバレーボールだった。
「すみません、平気でしたか?」
 ボールを追ってきたのは帆波さんだった。私も立って制服に付いた土を払った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。大変だね、球拾い」
 先輩がボールを拾って、帆波さんに渡した。帆波さんはおじぎして、すぐにコートまで走ってもどった。
「今の子、かわいかったね。あんな子がこの学校にいたんだ。一年生だよね、平田ちゃん、知ってる?」
 帆波さんです、と口にしかけたがやめた。私と彼女とは、同じ小学校の出身、それだけの関係しかない。

 放課後、園芸部の活動計画会議が終わり、私はひとりで教室の黒板を消していた。
 今日から夏服になって、半袖のブラウスが涼しい。卸したばかりの服にチョークがつかないように、少し黒板から離れて、上のほうに手をのばした。中学になって背は少し伸びたが、黒板の上まではせいいっぱいつま先立ちしないと届かない。なんだってこんな上まで先輩は字を書くんだろう。
 ようやく拭き終わったとき、教室の出入り口に視線を感じて顔を向けた。
 廊下に帆波さんが立っていた。何かにおどろいたような顔で、私を見ている。
「……なに?」
 私も固まってしまい、それ以上言葉が出ない。すると帆波さんは何もいわずに顔を横に向け、そのまま廊下を歩いて行ってしまった。
 私が何かしたのだろうか。もしかして、小学校のときに田原と帆波さんの噂を流したのが私だと思っていて、それをまだ怒っているのだろうか。
 中学に入ってから、別クラスの帆波さんとはときどき廊下などですれ違うこともあったが、今まで怒っているようなそぶりは感じなかった。それとも、最近になって誰かに何かをいわれて、改めて一年前のことで腹を立てている?
 そもそも、帆波さんが私の名前を知っているかどうかさえ、おぼつかない。同じ小学校からこの中学に進んだのは、女子だけだって100人近くいるのだ。顔さえ覚えてもらっていない可能性は高い。私は、帆波さんのような美少女ではないし。
 考えていても何も答えは出ず、黒板拭きの粉を落として教室を出た。
手に付いたチョークを洗うため、後で用も足そうと思ってトイレに入った。先に手のチョークの粉を洗っていると、個室から人が出てきた。
 帆波さんだった。トイレで会うと思わなかったので、私は動揺した。同じ学校なのだから、いつかこういうことは普通にあるのに。何を私は慌てているのだろう、と私は懸命に落ち着いたふりをした。
 一瞬立ち止まった帆波さんは、ゆっくりと私の横まで歩いてきた。隣の蛇口を捻って水を出した。
「あのさ。わきの下」手を洗う水音に混じって、帆波さんの声が聞こえた。
自分に話しかけているとは思わなかったので、顔だけを横に向けた。
「あんた、わきの下、剃らないの?」帆波さんが手元から顔を上げて私を見た。
 何を言われたかすぐにはわからず、手洗いを止めて帆波さんの顔をまじまじと見てしまった。
 赤くなった帆波さんの顔を見て、唐突に私は彼女が、私の脇の毛のことをいっていると悟った。半袖のブラウスの隙間から、脇が見えたのだ。そこに生えている黒い毛。
 私はぎゅっと、自分の腕を体に押し付けて脇を締めた。今さらそこを隠すかのように。息がつまり、私もまた顔が熱くなった。恥ずかしくて消えてしまいたくなった。よりによって、帆波さんに見られるなんて。
 何か言わないと、泣いてしまう。私はそう思い、ふるえる口で、ごめんなさい、と言おうとしたが、声が出ない。きたないもの見せて、ごめんなさい……。
「ごめん、変なこと言って」
 私が口を開く前に帆波さんは勢いよく水を出して手をばしゃばしゃと洗い、ハンカチも出さずに手を振りながらトイレを出て行った。
 私はのろのろと手を洗い終えた。尿意はどこかに行ってしまったが、個室に入って便器に座った。声を立てないように口を押えて、しばらく泣いた。
 私の体は中学に入ってから急速に変わった。帆波さんをうらやんだ下腹部の毛もすぐに濃くなり、胸もお尻も大きくなった。自分ではそれほどでもないと思ったが、弟は姉ちゃん、すげえデブになった、という。母はそんなことないわよ、といって私がダイエットなどしないように釘をさした。
 脇の下にも毛が生えるのは母や銭湯の大人の女を見て知っていたが、なんとなく自分にはまだ関係ないと思っていた。鏡の前に立って腕を上げると、黒いものが見えた気がしたが、それ以上確かめることはしなかった。剃刀を肌に当てることもなんとなく怖かった。
 自分を汚いと思ったのは初めてだった。脇の下の毛も、張り出してきた胸も、生理のときの黒い血も、昨日までは自分のものとして当たり前に受け入れていたものが急にいやらしく、醜いものに感じられた。小学校のときに銭湯で帆波さんの裸を見た自分、クラスで無視されて学校を休んだ自分、内緒で中学の勉強の先取りをしていた自分、わざと満点をとらないように答えをまちがえる自分、いつでもバレー部の練習が見えるように、校舎を背中にして花壇の手入れをする自分。そんな自分が、いやでたまらなくなった。
 家に帰り、母の化粧道具の中から、安全カミソリを取り出した。これで手首を切ったら死ねるんだろうか、という考えがよぎったが、安全カミソリの形状では血管がすっぱり切れるかどうかわからなかった。だめな自分に、死ぬことなんかできそうにもない。
 洗面台で鏡に脇の下を映しながら、石鹸をぬって剃刀を当てた。ひんやりした感触にぞくりと震えたが、なんとかがまんして毛を剃った。左脇はうまくできたが、利き腕でないほうの手を使う右脇の下は難しく、向きを変えて何度もカミソリを当てているうちに少し切ってしまった。
 痛みは自分への罰にふさわしい。ささやかな、ばかみたいな罰だが。
 次の日は、長袖のブラウスを着て登校した。衣替え直後だから、だいたい半分くらいの生徒は長袖を着ている。みんな脇の下の手入れはしているのだろうか。体育の着替えのときなど、目にする機会はあったのだろうが、昨日まではまったく関心がなかった。今さら、クラスメイトを捕まえて、脇の下を剃っているか聞くわけにもいかない。
 昼間は顔を見る機会がなかった帆波さんを、放課後に廊下で見つけた。運動着姿で、これから部活に行くところだろう。帆波さんは私に気づくと、なぜか笑いかけてくれた。その笑顔に勇気づけられて、私は彼女に駆け寄った。
「わき」
「え」
「剃ってきたよ。ありがと、教えてくれて」
 たぶん、緊張しているのがまるわかりだったろう私を見て、帆波さんは少し驚いたように目を見張ったが、いきなり笑い出した。
「あは……。そっかそっか。剃っちゃったか」
 なおも彼女は笑っている。それを見て私もつられて笑い出した。
「うん、剃っちゃった。少し失敗しちゃったから、今日は長袖」
 帆波さんは服の上から私の両脇を確かめるような視線をよこした。私は思わず脇を締めながら、帆波さんの顔を正面から見返す。
「ふうん、あんた面白いね。ごめん、名前なんだっけ?」
「平田。平田ゆき。小学校いっしょだったよ」
「そうだよね。あたしは」
「知ってる。帆波さん。帆波さおり。南沙織ちゃんと同じ名前だから、覚えてた」
「そうか。それはうれしいな。あたしも南沙織、好きなんだ」
 帆波、行くよ、とバレー部の子が声をかけ、今行く、と帆波さんが答えた。
「じゃあね」帆波さんが手をひらひらと振って、体育館へ走って行った。今日の練習は室内のようだ。
「じゃあね」彼女にはもう届かないのはわかっていたけれど、私も同じ言葉を口にした。
脇の下にかいた汗で、剃り跡がひりひりした。

 私は自分に課した『恋愛話はしない』ルールを少しずつ緩めた。
 誰が好きか、という話題は、中学生女子の中にいては避けて通れない。相変わらずひろみや秀樹好きを主張する女子もいるが、ほかの多くの普通の子たちは、クラスの中や上級生から自分の憧れの対象を指名して、仲間内に披露しあう。純粋に自分の想いを聞いてほしいという子もいるだろうが、秘密を共有することで友だちとしてのつながりを維持する気持ちも強い。
 私にも居場所は必要だったから、園芸部でも教室でもいっしょに行動する友だちはひきとめておかなければならず、男の子の話題は無視するわけにはいかなかった。
 それで、好きな人、というかあこがれている人はバレー部の先輩、ということにした。
 男子バレー部には女子に人気のある上級生が何人かいて、クラスの中でもあこがれている子は少なくない。競争率が高いのだが、逆に誰かが抜け駆けをする心配もなく、それこそアイドルにキャーキャーいうのと変わらない感覚で、かっこいい、すてきだ、と言っていられる。
 それでも、特定の名前は挙げなかった。
「いいよ、無理に言わなくても」園芸部の気のいい友だちは物分かりよさげにそう言ったが、「丸山先輩だったりする?」と食い下がってきた。
「みっちゃんの憧れって、丸山先輩?」
みっちゃんが恥ずかしそうにうなずいた。丸山先輩は男子バレー部のエースアタッカーだ。ファンの子は多い。私は、みっちゃんを安心させることにした。
「ちがうよ」
「そうか、じゃ、高木先輩か、細野先輩だ」みっちゃんがうれしそうに上げた名前を、私は、その通りともちがう、とも言わず、そんなところかもね、とあいまいにやりすごした。ライバルでないとわかってもらえればいい。
 その「告白」をして以来、私たちはおおっぴらにバレー部の練習を見物した。バレー部は男女がコートを並べて練習している。花壇から、あるいは校舎のベランダから見ている分には、誰を見ているかなんてわからない。
 友だちが、「見た?丸山先輩のスパイク。すごいよね」ということばに「そうだね」と適当にあいづちをうち、「やっぱりかっこいいなあ」というため息に、同じようにため息をついて「ホントだね」と答える。誰かを思う気持ちを人と分け合うのは、悪くなかった。追いかけている相手は別々だったとしても。
 帆波さおりはますます美少女っぷりを上げていった。一年生のころはまだかわいらしさが全面に出ていたが、中二になるときりっとしたおとなっぽい印象が勝るようになった。体つきはどちらかといえば中性的で、存在感は体育館や校庭で運動着姿のときに際立っていた。それが制服で教室にいると、どちらかといえば控えめな印象となるが、逆に落ち着いた雰囲気をただよわせて、中学生には見えない。
 そんな美少女が放っておかれるわけもなく、先輩や同級生、学校に入ってきたばかりの中一坊主から、何回も告白されたらしい。だれだれ先輩が告白してだめだった、とか同じクラスのふたりから同時に好きだといわれて、どちらかを選んでくれ、と言われたとか、果ては教師からも手紙渡された、なんて噂まで私には聞こえてきたが、特定の人と付き合っている、という話は聞かなかった。
 まだ中学二年生なんだし、男と付き合うひまなんかないから。そんなふうに考えていた私に、園芸部のみっちゃんが、「帆波情報」を教えてくれた。
 バレー部の丸山先輩をひいきにしているみっちゃんは、先輩が帆波さおりを好きなのではないかと気にしていた。それで帆波さおりのことをあれこれと調べていたらしい。
「あの子、ものすごくもてるけど、デートとかする時間ないのよ」
「どういうこと?」
「あの子のお母さん、去年病気で亡くなっているんだって。お父さんが家で商売しているので、家事は帆波さんが全部やっているの。お兄さんもいるけど高校生だし、バイトしてて」
 もしかしたら、銭湯で見かけたころだろうか。私の存在など意に介さず、私の母を目で追っていた帆波さん。あのころ、お母さんを亡くしたのか。
「そうなの。全然知らなかった……」
「だから、付き合ってほしいといわれても、申し訳ないけど、時間がないからお付き合いできません、って断ってるんだって。先輩も断られたらしいよ」
 中学二年生の女子に、それでもいいからつきあってほしいといえる男子中学生はいないだろう。私たちにとっての恋愛は、しょせん子供の遊びだ。
「でも、よく部活やってるよね。ごはんとか、帰ってから作るのかな」帆波さんが台所でごはんの支度をしている姿は想像がつかない。
「がんばりやなんだよ。というか、負けずぎらいっぽくない?あの子」みっちゃんが決めつけるようにいった。「ああいう美人は、絶対に負けずぎらいだと思う」
「そうかもね」と私は同意した。どんな困難にも帆波さおりは立ち向かうだろう。美しさを武器にして。私はそれを応援したい。彼女が戦う姿を見ていたい。たとえ、自分が彼女の視界の片隅にさえいられなかったとしても。

4 夏祭り

 ほとんどの生徒と同様に、帆波さおりも私も中三の一学期で部活を終えた。校庭で見かけることがなくなった帆波さおりの姿を、私は教室のベランダや廊下で探した。
 トイレで言葉を交わして以来、私が彼女と口をきく機会はなかった。それでも私は彼女を見かけるとじっと視線を送り、何回かに一回は彼女がこちらを向き、目が会うことがあった。
一度目が会ったとき、彼女はにこっと笑ってくれたのに、私は気恥ずかしさで、すぐに目をそらしてしまった。それからは視線が重なっても彼女が表情を変えることはなかった。私も、あ、目が会った、と思ったらすぐによそを向く。それが、私と彼女との関わりだった。
 受験生の生活に少しずつ体をなじませて、中学最後の夏休みを迎えた。当然のことのように受験のための講習会やら模擬テストやらが目白押しで、夏休みらしい思い出を作ろうなどという話はどこからも出てこない。私はそれまでの適当な秀才ごっこをやめ、本格的に勉強に精力を注入していた。今さらテストで満点をとろうが、クラスでトップになろうが、だれもそんなことで自分への評価を変えたりはしない。どれほどがんばっても絶対に抜けない同級生が出てきて、私は思う存分テストで戦うことにした。
 お盆休みになり、中身の濃い塾の夏季特訓が終わった。私は少しだけアクセルをゆるめることにした。塾の講師からも、詰め込みすぎるとパンクするから少しは息抜きをするように言われた。さんざん課題やテストでしぼったあとの言い訳じみてはいたが。
 気晴らしといっても今さら夏休み旅行に行くわけにもいかず、映画でも見ようかと思っていたら、園芸部仲間だったみっちゃんから、K市の夜祭に誘われた。
 小学6年の町の神社祭りを思い出して初めは気が進まなかったが、K市の祭りは何台も山車が出る大きな祭りだ。ローカル局だがテレビ中継もされる。私が志望しているK女子高も近くにあるから、学校の雰囲気を知るにもいいかもしれない、といっしょに行く約束をした。
 母が若いころ着ていた浴衣を用意してくれた。浴衣を着るのは小学校の低学年以来だ。
 駅でみっちゃんと待ち合わせた。みっちゃんも浴衣だった。お互いに、にあうね、かわいいね、とほめあい、けらけら笑った。 みっちゃんの浴衣は今風で華やかな柄だった。わたしのは紺がすりのしぶい柄で、近頃自分でも丸みが出てきたと思える体には、子供っぽくなくて似つかわしいかもしれない、と思えた。
 K市はすごい人出で、私たちは離ればなれにならないように気をつけて歩いた。屋台でりんご飴を買い、どうせすぐ捨ててしまう水入りゴムヨーヨーを買い、山車を眺めてから、祭り会場の中心にある神社で合格祈願をした。
「ゆきはいいよね、勉強できるから。K女子高受けるんでしょ?」
「一応第一志望はね。受かるかどうかわからないけど」
「私は北高、なんとか入りたいけど。むずかしいかな」
「熊木といっしょでしょ。がんばりなよ」
 みっちゃんは、私の小学校の同級生の熊木と付き合っている。同じ高校に行きたい、と共学の北高が第一志望だ。
「あいつのほうがどちらかというとやばいと思うけど。今日だって、いっしょに来ることにしてたのに、特別講習だから行けなくなった、って。やる気になっているのは確かかな」
 それで私を誘ったのか。
「なんて、あっちだけ受かってあたしが落ちるのも最悪。いっそふたりで志望下げようかな」
「だいじょうぶ。愛が力をくれるよ」
 友だちが言ってほしいだろうと思う言葉をかけたが、心の中では、仮に高校が別々になったって、付き合い続けることはできるよ、と付け足した。もしそれで別れるのなら、ふたりはそういう運命なのだ。
 あの子は、どこの高校を受けるのだろう。私は夏休みになって顔を見られなくなった、ひとつ隣のクラスの女子を思い浮かべた。勉強がものすごくできる印象は受けないから、たぶん自分が志望しているK女子ではないだろう。同じ高校に行こうとしたら、私がランクを下げればいいのか。
 そんな不遜なことを考えていたから、お祈りした神社の神様が怒ったのかもしれない。
「そろそろ帰ろうか」みっちゃんに促されて、駅に向かおうとしたとき、突然周りの音が消えた。
 周囲の光景がぐるぐると回り、視界が急に狭くなった。その中心に、何かを見つけたような気がしたが、冷たい固いものが顔に当たって、目の前が暗くなった。私は意識を失った。
 気が付くと、私を心配そうにのぞき込んでいるみっちゃんの顔が見えた。その向こうには夜空が拡がっている。私はまだ祭りの会場にいた。どうやら地面に横になっているようだった。浴衣の背中に、冷たい石畳の感触がある。
 起き上がろうとしたら、誰かに肩をそっとおさえつけられた。そちらに目を向けると麦藁帽をかぶった女の子がいた。さっき、倒れる直前にちらりと見かけたのはこの帽子だったか。
「動かないほうがいいよ。今救急車来るから」
 帆波さおり。彼女がどうしてここに。
「よかったよ。帆波さんいてくれて」みっちゃんが鳴き声でいった。「ゆきが急に倒れるんだもの。どうしたらいいかわからなくて」
 倒れた。私が。気絶したのか。
「ちょうどうちの店の前だったから」帆波さおりが少し唇をゆがめていった。「びっくりしたよ。誰か、って叫ぶ声聞こえたから」
「神社の入り口に救急車来たってよ」
 アロハを来た若い男が帆波さおりに話しかけ、彼女が立ち上がって男の腕をとった。
「よかった。早かったね。平田さん、もうだいじょうぶだよ」
 私は何もしゃべれなかった。
 店って何。その人はだれ。あなたはなんでここにいるの。
 救急隊員が到着して、慎重に私をストレッチャーに移し、救急車に乗せた。みっちゃんもいっしょに乗り込んだ。私の意識が回復して、救急車に乗ったことで安心したのか、みっちゃんは、すごい、私、救急車乗るのはじめて、と物珍しそうに車内を見回した。
「ゆきのお母さんには電話してもらったから。病院に来てくれるよ」
 ありがとう、と言おうとしたが、やはり口が動かない。手を動かそうとしたがこちらも力が入らなかった。
「ゆきが倒れたところに帆波さんがいてくれてよかった。私、初めてしゃべった。帆波さんのおうち、八百屋さんなんだって。お祭りで頼まれて屋台出して、すいかとかバナナとか売ってたの。帆波さん、手伝いで店番してたんだよ」
 帆波さおりの家は八百屋さんで、神社に店を出していた。私はみっちゃんの言葉を頭の中で繰り返した。
「いっしょにいたの、お兄さんだって。高校生っていってたけど、帆波さんに似ていて、かっこよかったよね」
 そうか、お兄さんか。そう思ったとたん、気が抜けたのか、私はまた意識を失った。

 私は虚血性脳貧血、と診断された。脳の血管に何らかの理由で血が通わなくなり、神経が遮断されたのだといわれた。
病院に運ばれ、救急処置を受けている間は意識はなかったが、目が覚めたとき、私は話すことも体を動かすこともできなかった。ベッドの横にいた母はやさしい顔で、心配しなくても、すぐに元に戻るから、と言ったが、私はパニックになっていた。
 やだ、助けて。しゃべれない、動けない。
 涙だけは流れて、私はいやいやするように首をふろうとした。母がそっと私の額に手を置いた。
「まだ麻酔が効いているのよ。だいじょうぶだから。休みなさい。お母さんがついているから」
 母の手のぬくもりを感じ、次第に気持ちが落ち着いてきた。再び眠りに落ちる間、倒れた私を心配そうにのぞきこんでいた帆波さおりの顔が浮かんだ。横にいるお母さんと彼女のイメージが重なって、彼女が手を当ててくれているような気がした。
 次の日、目が覚めると、手を動かすことができてほっとした。お医者さんが言うとおり、麻痺は残っていないようだった。
一晩中、起きていたのか、少し眠って私より先に起きたのか、ベッドの横に母が座っていた。私が目を開けると、にっこりと笑った。
 おはよう、と言おうとして、言葉が出てこないことに気づいた。声は出せるが、あー、とか、うー、としか言えない。私はのどを指で押さえ、せき込んだ。
「どうしたの」母がわずかに顔色を変えた。
 私は母に向かって、自分の口を指で示し、さらに両手でばってんを作った。話すことができなくなっていた。
「私の言うことはわかりますか」医師の質問に私がうなずくと、「失語症ではないな。突発性の発声障害でしょう」と言った。それからクリップボードに紙を挟み、ペンといっしょに私に寄越した。
「名前を書けるかな」
 少しふるえたが、自分の名前は書けた。
「一時的なショックによるものだと思います。でも脳のどこかの血管がつまっているかもしれないので、しばらく様子をみましょう」
『私、話せなくなったの?』
 私は紙にペンでそう書いた。
「だいじょうぶよ。すぐ直るから。心配しないで」母が私からペンと紙をそっと取り上げた。「こういうのも必要なくなるわ」
 いつ治るの。どうやって。そう聞きたくても、言葉は出ず、書くものもなければ訴えることもできない。
 私は急激に不安に襲われた。何とかしゃべろうとして、私はあー、あーと意味をなさない声を出し続け、ついにはその声のまま泣き出した。母が私の腕を何度もさすった。
医師の説明によると、言葉の機能が失われたわけではないらしい。人の言うことを聞いて理解し、文字も書ける。だが、言葉を発する機能だけが何らかの理由でブレーキがかかっている状態だという。原因ははっきりしないが、何かのきっかけで急に治ることもあるようだ。
 私は自分の病状にすぐに慣れた。どこかが痛いわけでも苦しくもないし、病室では自分から話す用もない。母や看護婦さんから言葉をかけられ、返事をしようとして、自分がしゃべれないことに気づく、そんなことが何度かあって、私はしゃべらない習慣を身に着けた。
 お見舞いに来てくれたみっちゃんは、私が話せないのを知ると驚いたが、ならば自分が代わりにとばかりずっとしゃべっていた。考えてみればみっちゃんがしゃべって私が聞く、というのはこれまでもずっとそうだった。ただ私が言葉にして、そうだね、そうなんだ、ほんと、とあいづちを打つかどうかの違いだ。今は首を上下にふるだけ。
 学校が夏休みということもあって、みっちゃんの話題はほとんど自分と熊木のことだった。ふたりのつきあいの様子は、聞いている分にはいい気晴らしになった。
熊木がどれだけみっちゃんを好きか、とか、みっちゃんとしては熊木のどこに物足りなさを感じるか、とか、ラジオから流れてくるDJのおしゃべりのようだった。耳ざわりは悪くなかったが、私の関心が薄いので内容がだんだん頭に入ってこなくなり、そのうちうなずくことも面倒になってきて私はうとうとしかけた。
「ねえ、聞いてる?」みっちゃんがちょっと怒った声を出した。
 はっと我に帰り、何が、と言おうとしたが言葉は出ない。ノートの代わりに母が買ってきたホワイトボードをつかんだが、字を書くのが面倒で、手を前に立てて、ごめん、と口を動かした。
「あいつ、この間キスしてきたからさ、つきとばそうとしたんだけど、できなくて」
 え、とまた口を動かした。そんな話してたのか。全然聞いていなかった。
「それでさ、結局」
 みっちゃんがそこで黙った。私は続きを待ったが、みっちゃんは何も言わない。私は唇を突き出して、ちゅーの形をつくってやった。
「ばか」
 みっちゃんが抱えていたクッションを投げるふりをした。私は声を出さずに笑った。
 また来るから、といってみっちゃんは帰った。
 その後、夏休みが終わるまでに一回顔を出してくれたが、私が六人の相部屋に移ると病室で話をしづらくなり、学校が始まってからは受験勉強もあるんだから、といってこちらからお見舞いを遠慮してもらった。
 私は病院で退屈を持て余した。受験勉強が気になったが、母が、まだ無理して頭を使わないほうがいいというので、まだ参考書をながめる程度にとどめた。
 帆波さおりが来てくれないかな。病室の窓から夏の空を見て、神社にいた帆波さおりの麦わら帽子を思い出した。
 救急車の手配をしてくれたのだからこちらからお礼をいうべきだったが、まさかそのために呼びつけるわけにもいかない。でも、入院したことは知っているだろうから、きっと心配しているのではないか。私のことを個人的によく知らなくても、救急車を呼んで運ばれた人がどうなったか、普通は気になるだろう。だったら、こっちから様子を伝えるのも礼儀だ。
 入院中という特殊な環境で、私の心も平常ではなかったのだと思う。私は手紙を書き、救急車を呼んでくれた帆波さんという人のところへ届けて、と母に手紙を託した。
「お母さんも気になっていたけど、どこの人かよくわからなくてお礼も言えていないし。いいわ、学校で聞いてみる。帆波さんというのね」
『中、読まないでね』
 ホワイトボートに書くと、母は意外そうな顔をして、読まないわよ、と笑った。
『絶対だよ。読んだらお母さんでも許さないから』
 かえって興味を持たれそうな気もしたが、念を押さずにはいられなかった。手紙には、救急車を呼んでくれたお礼と、言葉が話せなくなったことと、受験がんばろうね、という、誰に読まれても何の問題もないことしか書いてはいない。それでも、彼女に宛てた手紙を人に読まれたくなかった。
「行ってきたわよ、帆波さんのところ」母はさっそく訪ねてくれた。「救急車呼んでくれたお兄さん、高三っていっていたけど、しっかりしているわね。ハンサムくんだし」
 母は帆波兄のファンになったらしい。お父さんは仕事で不在だったそうだ。
「さおりちゃん、あんたの手紙受け取るとすぐに読んで、返事書いてくれたわよ。これ預かってきた」
 少し中身の膨らんだ封筒だった。表に、平田さんへ、と書いてある。彼女の書いた字を初めて見た。待ち切れずに封を切った。便箋が一枚、それとお守りと写真。お祭りで私たちが出かけたK市の神社のものだった。
<病気(といっていいのかな?わからなくて。ちがったらごめんなさい)のこと聞きました。話せなくなったんだって? たいへんだけど、きっとよくなるよ。お見舞い行きたかったけど、家のことがあって手がはなせなくてごめんなさい。代わりといってはなんですが、あの神社であたしが買ったお守りを受け取ってください。すごいんだよ、この神社の御利益。家内安全、合格祈願、病魔退散、それに恋愛成就。デパートみたいでしょ。一個持っておけば何にでも効くからお買い得。倒れたところのお守りなんて、もしかしたら迷惑かもしれないけれど、あたしたちがあの場所で店出していたのも、不幸中の幸い(使い方あってるかな?国語得意じゃないんだ、まちがってたらごめん)と思って、受け取ってください。>
 写真は、南沙織のブロマイドだった。私がファンだというのを覚えていてくれた。私は、お守りと南沙織の写真をずっと見つめていた。悲しくはないのに、泣きそうになって、胸が切なさでいっぱいになった。
「あなた、南沙織が本当に好きなのね」
 呆れたように母が言った。

5 卒業と始まり

 ひと月で退院した。体の機能は問題なく、リハビリもほぼ必要はないと言われたが、話すことはできないままだった。専門の施設でトレーニングするように言われ、その手続きをして、学校に戻ったのは秋も中場だった。
入院中で秋の修学旅行には参加できなかった。楽しみにしていなかったわけではないが、行かずにほっとした気持ちもあった。旅行で、みんなといっしょにお風呂に入るのがいやだったのだ。
 小学生までは銭湯を利用していたが、風呂付の部屋に引っ越してから、人前で、それが同級生であっても、裸になるのが恥ずかしかった。自分は、中学三年生になってから、「グラマー」といわれる体になっているらしい。胸も母と同じくらい大きくなって、ブラジャーはふつうに大人用を使っている。お尻もはずかしいくらい大きい。体重は身長と比べるとそんなに多くはない、という数値のようだが、私は自分を太っていると思っている。そういう体を同級生に見られたくなかった。
 もしも修学旅行に行けて、みんなといっしょにお風呂に入ることになって、そこに帆波さおりがいたら、どうだったろう?
 クラスも違い、ありえない想像だったが、そう思うと、恥ずかしさとは違う感覚が胸の奥から突き上げてきた。私は自分を抱きしめるように強く腕を組み、その疼きを押さえつけた。
 自分がどんどん変な人間になっていくようで不安になると、帆波さおりがくれたお守りを手にとった。帆波さおりが勧めてくれたご利益いっぱいの神様に祈ったら、確かに心が静まった。
 お守りのご利益は、私の体についてはなかなか効果を発揮してくれず、トレーニングを受けても、私は話せないままだった。心配された脳血管のつまりについては、脳のスキャンなどした結果、特に異常は見られない、といわれた。あとは時間が解決してくれるのを待つしかない。
 言葉を話せなくても、学校に行けばなんとかなる。みんなの言うことはわかるし、伝えたいことはホワイトボードに書けばいい。そう思っていたが、実際に友だちの会話を黙って聞いているのは簡単ではなかった。
「え、そうなの」「うそ」「ほんと?」「やだ」
 そんな短い返事でも会話を続けるには必要なアクセントになる。私が無言でいると、話を理解しているかどうか不安になるらしく、友だちはしょっちゅう「わかる?」と確認してくる。それがみんなの負担になっていると思うと、私はだんだんと一方通行の会話からは外れるようになった。
 授業でも、名前を呼ばれて返事ができない。すべての教員に私の症状が伝わっているわけではないのか、あるいはただ忘れている教師がいるのか、ときどき「平田、いるのか?」と聞かれる。手を挙げて応えたつもりでも、そもそも生徒の顔をろくに覚えていない教師もいて私に気が付かず、クラスの子が「先生、平田さん、います」と代わりに返事をしてくれる。
 そういう申し訳ないことが続いたが、教師もやがて私の症状を覚え、受験に向けて学校の授業も次第に問題演習が中心となり生徒の発言する機会も少なくなった。文字通り、私は黙々と勉強した。
 休み時間は本を読むか、天気がいいときは教室の外ベランダに出て、この期に及んで短い休憩時間でもボールを追いかける男子を眺める……ふりをして、ふたつ隣の教室のベランダにいる帆波さおりを見ていた。彼女も校庭の人影を目で追っているようだった。それが誰かは知りたくもなかったが。
 そうして二学期は終わり、年が明け、受験シーズンとなった。声を出せないために面接のある私立学校は避け、公立と、事前の学校見学時に相談して、言葉を話せなくても受け入れてくれる私立学校を選んだ。目標としていた県立の女子高は、試験と内申だけで合否を判定する。
 おしゃべりがなくなった分、友だちにも会わず勉強に集中した私は、帆波さおりがくれたお守りがここでも力を発揮して、本番でもまったく緊張せず、無事合格した。
 合格報告に職員室に行き、無言で合格証書を担任教師に見せているとき、帆波さおりが友だちと連れ立って職員室に入ってきた。笑顔を見て、彼女も合格したのだろう、と推測した。
 よかったね。私も合格できた。お守りの効果があったよ。
心の中でそう呼びかけた。彼女は私に気づかないのか、こちらを見てはくれなかったが、今日、職員室で顔を見られたことが、高校合格のごほうびに思えた。
 受験が終わり、もはや誰もが惰性で受ける最後の期末テストを経て、卒業式を迎えた。
 前の晩、私は長い手紙を書き、書き終わったあとでそれを渡す場面を想像して、高ぶる気持ちと、絶対に無理、渡せない、という絶望の間で眠れなかった。青ざめた顔で起きてきた私を見て、母は心配したが、理由は深く聞かなかった。式が終わったら一緒に帰る?と聞かれ、特に約束はなかったが、友だちと残るから、といって、母には先に帰ってもらうことにした。
 式が始まり、声の出ない私は校歌も君が代も口だけを動かし、校長や来賓の祝辞の間は昨夜の寝不足解消のためほとんど椅子の上で眠っていた。祝辞が終わっても気が付かず、皆があいさつのために立ち上がる音に反応してあわてて立つ始末だった。
 卒業証書授与。
 生徒がひとりひとり名前を呼ばれて壇上に進む。私たちのクラスより先に、帆波さおりのクラスが呼ばれる。
 彼女の番が近づき、私たちの座っているところより三列前の椅子から彼女が立ち上がって、壇の下へ向かう。
 階段を上がって舞台の右袖に立ち、そこで名前を呼ばれ、はい、と凛とした声で応え、壇の中央に進む。卒業証書を受け取り、軽くお辞儀。そして左手に進み、階段を降り、席に戻ってくる。
 私はほとんど息をするのも忘れて、彼女の姿を追った。こちらにもどってくるときは、顔を見つめ続けた。でも彼女は気づかない。視線をまっすぐ前に固定したまま、椅子の列に着くと向きを変え、着席した。
 これが、彼女を目にできる最後かもしれない。そんなことを考えているうちに、自分たちが受け取る番になり、私は同じ列のクラスメートといっしょに立ち上がった。
 声が出ない私は、名前を呼ばれても返事ができない。無言で壇上を進み、証書を受け取る。背中に会場中の視線を感じたが、たぶん保護者席にいる母くらいしか、私に気を留めている人はいないだろう。すでに100人近くの生徒が同じ動作で証書を受け取っている。そろそろみんなあきている頃だ。
 証書を受け取って壇を降り、下で待っている先生に証書を預け(あとで教室で受け取る)、自分の席に戻るとき、私を見ている帆波さおりと目が合った。どうなってもいいという気持ちで、私は目を逸らさなかった。彼女も、私を見続けている。私が席に戻るまで、首を不自然に横に向けずにすむぎりぎりまで彼女の顔を目に焼き付けておきたかった。
 卒業生の言葉が始まり、まわりの女子の何人かが泣き出した。私もいっしょに泣いた。声を出さずに。
 式が終わっても、生徒はいつまでも校舎に残っていた。友だち同士で名残を惜しみ、写真を撮ったり寄せ書きを書いたり、さらにそうなるのだろうな、と思っていたがあちらこちらで告白大会が始まった。
 人気のある男子などは告白する女の子が行列をつくっていた。女子に告白する男子は人目が気になるのか、校舎の裏や屋上(本来は立ち入り禁止だが)、体育館などに女の子を呼び出していた。
 母には先に帰ったが、私も式が終わったらすぐに学校を出るつもりでいた。別れを惜しみたくても言葉がままならないから。
 昨晩書いた手紙は家に置いてきた。好きな子に告白して、ごめんなさいといわれているクラスメートを見ていると、自分がとんでもないことをやろうとしていたと思わずにはいられなかった。女の子に手紙を渡そうとしたなんて。
 帰ろう、早く教室を出よう、と思うが、校舎に卒業生を引き止める磁力でもあるのか、立ち上がることができない。
「平田、よかった、まだいてくれた」
 男子に声をかけられた。田原だ。小学校のときに私を絶望の淵におとしこんだ男子。田原は中学で陸上部に入り、短距離のエースとなって、確か高校も陸上の推薦で私立の強豪校に入ったはずだ。当然というか、女子の人気も高かった。そのモテる男子が私に声をかけてきた。
 田原は教室からほかの生徒を追い出すと、黒板の前に私を立たせて、「平田ゆきさん、中学の間、ずっと好きでした。高校行ったら付き合ってください」と生真面目に頭を下げた。
 自分には縁がないと思っていた告白。驚いたが、特別な気持ちで私を見てくれていたことは素直にうれしかった。そいつが苦い思い出を呼び起こす男子でも。
 私は田原に何の怒りも感じていない自分に感心した。むしろ、これから伝えなければいけないことを考えて、胸が少し痛んだ。
 持ち歩いているホワイトボードを使おうとしたが気が変わり、私は黒板に向き直って、チョークで大きな相合傘を書いた。
 右に田原、と書いた。左に帆波、と書いて、おぼえてる?と口を動かした。
「あのときはごめん。俺、まだガキだったし」田原が慌てて、また腰を九十度曲げた。
 私は黒板拭きで、帆波の名前を消して、平田、と自分の名前を書いた。
「え。それって」田原が満面の笑みを浮かべた。
 私は顔を傾けて、平田の下に?を書き、それからさっと名前を消した。そして、
『ごめん』と書いて、田原に深々と頭を下げた。
 田原はあからさまに傷ついた顔をしたが、ふっきれたように笑うと、
「ま、わかっていたけど。おまえ、絶対ほかに好きなやついるだろうし。うらやましいよ、そいつのこと」といって教室を出て行った。廊下で、「田原せんぱーい」という下級生の声が聞こえた。今度はあいつが告白を受ける番らしい。
 田原の意外な告白が勇気をくれた。
 私は意を決して教室を出た。廊下を進み、教室をひとつひとつのぞき、校庭をながめ、昇降口へ行き下駄箱を確かめた。外靴はまだあった。まだ、学校にいてくれている。
 私は階段を上って屋上に行き、それから体育館へ向かった。
 体育館では、男子がふたり、右手を前に出して、帆波さおりに最敬礼していた。
 私は出入口で体を反転して背を向け、耳を手でふさいだ。帆波さおりの、よろしくおねがいします、を聞きたくない。
 やがて、ふたりの男子が体育館を出てきた。へらへら笑っている。どうやら、思いかなわず、のようだ。
 私は彼らが行ってしまってから、帆波さおりにかけよった。
「平田さん? まだ残っていたの」さおりが笑顔を向けてくれた。
 あ。ホワイトボードを教室に置いてきた。
「よかった。探しに行こうと思ってたんだ。そしたらつかまっちゃって」
『告白されちゃった?』私は声に出さずに、笑いながら口を動かした。
 さおりは私のいうことがわかったのか、「当たり」といった。
『断ったの』
「断っちゃった」
『なんで』
「なんで断ったかっていうとね。あたし、人から好きになってもらえるような人間じゃないから」
 何をこの子はいってるんだろう。誰だって、帆波さおりを好きになる。それがふつうだ。
 私があきれたような顔をしたからか、それじゃあ説明しよう、とでもいうようにさおりが手を後ろに組み、何かいいかけた。
 そのとき、何人かの男子がバスケットボールを床につきながら体育館に入ってきた。名残を惜しんでひと遊びしようというのだろう。
「こっち」さおりが私の手をつかんで体育館の奥に走った。男子たちに気付かれるまえに、私たちは体育館の女子トイレに入り、入り口の戸を閉めた。
 戸を背にして息を整えると、さおりが笑った。二人でトイレに逃げ込んだ状況がおかしくて私も笑った。トイレの中は、窓から外の光が入って明るかった。
 私は大きく息を吸った。これから彼女に伝えることがある。本当は、絶対に言ってはいけないことを。
 小学生のときに不用意にこぼした言葉が、その後の私に災いをもたらした。私の思いは決して言葉にしてはいけない。たぶん、私がしゃべれなくなったのは、私自身が私に私の思いを口にすることを禁じたからだ。私は、自分の口を自分の手でふさいでいる。
でも、私はいま、その手をふりほどく。今日が最後の日だから。おそらく、彼女と会うのはこれでおしまいになるから。
 ああ、でも。ホワイトボードがない。私は、私の思いを、どうやって彼女に伝えればいいのだろう。
 私が絶望で顔をゆがめると、さおりもなぜか顔をくしゃくしゃにして、苦しそうにつぶやいた。
「ごめん。今から気持ち悪いこというね。許してね」そこで彼女は言葉を切った。
「あたし、平田さんのこと、ずっといやらしい目で見てた」
 女子トイレの外から聞こえる、男子がバスケットボールを床に弾ませる音。嬌声。それが耳元から一切消えた。さおりの声だけがひびく。
「平田さんの胸とか、後ろから見える首筋とか。知ってたよね。あたしが見てたの。ごめんね。女なのに。恋とか、きれいなものじゃない。あたし、平田さんが、すごく」
 さおりは泣き出した。小さな子供みたいに。
 私はさおりにそっと近づき、うつむいている頭を抱きしめた。一瞬さおりが体を固くしたが、すぐに体重を預けてきた。私たちはトイレの横に腰を落とした。使っていない体育館のトイレだから床は乾いている。それに、今来ている制服にもう用はない。
 少し落ち着いたさおりは私の肩に首をもたれかけた。
「あたしね、もてるじゃん。今まで何人も男子からつきあってくれって言われた」
 うん、とあいづちのつもりで頭をぽんとさわる。
「でも、ちっともときめかなかったんだ。ああ、たぶん、まだそういう相手に出会ってないんだな、と思ってた。家の用も忙しかったのはそうなんだけど、そこをどうにかしてでも誰かとつきあいたいって思ったことなくて」
 ぽん。
「そしたら、会っちゃったんだ。運命の相手に。というか、見ちゃった」
 ぽん、ぽん。
「あんたのわきの下」
 ぽん……え?
「わきの下の毛が、なんかすごくいやらしくて、なんでだろ、同い年の女の子だからかな、なんて頭が混乱して。ごめんね、ほんと、気持ち悪い。自分でもそう思う」
 さおりが目をこすり、鼻水をすすりあげた。美少女はこんな顔でもかわいい。
「それからかな、あんたのことが気になって。胸も大きいし、いつか見てみたいな、とか、本気で想像してた。私、部の練習のときも、いつも見てたんだ。あんたが花壇やっているの。そんなこと考えていると、自分に告白してくれる男子に申し訳なくて。好きなやついるの、って聞かれても絶対に言えないし。でも、毎日学校行くの楽しみだった。あんたに会えるから」
 落ち着いてきたのか、さおりは体を起こし、私からすこし離れた。
「自分の気持ちを言うつもりはなかった。あんたが神社で倒れた時、あたしそばにいても何もできなかったけれど、手紙もらったりして、もしかしたら、運命とかあるのかな、とうぬぼれた。でも受験でそんな雰囲気じゃなくなって……やっぱり卒業だしさ、もう二度と会えないかもしれないじゃん。今日はみんな告白して撃沈するし、こういうときなら勇気も出るかな、と思って」
 私は今、どんな顔をしているのだろう。夢を見ているのは確かだ。さおりが、私にこんなことをいうはずがない。
「もう、全部言っちゃおう」さおりは両手で目をおおった。「あたしさ、あんたの脇の下見た後、トイレ行ってエッチなことしちゃった。だからびっくりしたよ。トイレ出たら、本人が目の前にいるんだもん。ごまかそうとして、思わず話しかけちゃった。それからさ、夏で薄着になるとさ、あんたの胸の形が」
 もう聞いていられなかった。これ以上、さおりに恥ずかしいことを言わせたくない。私は耳まで真っ赤になって、さおりをだまらせようと顔を近づけた。唇が相手のにぶつかった。
 え、とさおりが何か言おうとしたので、私はさおりに思い切り抱き着いた。それから背中に回した指で、
 すき
 となぞった。さおりの体が固まった。
 スキ、とこんどはカタカナで書いた。何回も何回も書いた。さおりがまた泣き出した。
「すき……」
 そのとき、ずっと出なかった声がのどからもれた。使っていなかった声帯からは、まるで老婆のようなかすれた音しかでなかったが、それでも半年ぶりに私は自分の声を出すことができた。封印は解かれたのだ。
 しゅひ、しゅひ。
 口から出る音は自分の耳で聞いても意味をなしていなかったけれど、私はこれまでずっと、自分の心の中でさえ使うことを禁じていた言葉を、何度も、何度もつぶやいた。

 誰もいなくなった学校から、私たちは並んで外に出た。夕焼けに赤くそまった、明日からはもう通ってくることのない道を、ゆっくりと歩いた。ふたりとも涙は乾いていて、私は、昔通っていた銭湯からの帰り道の湯上がり気分に似ている、と思った。
 校庭を出てからずっとだまっていたさおりが、ようやく口を開いた。
「そうだ、K女子高行くんだよね。まだおめでとう、って言ってなかった。すごいね。おめでとう」
『ありがとう』まだ声がちゃんと出ないのと、のどに痛みもあるので、私はすっかり慣れてきたホワイトボードを使った。
『お守りのおかげ。あれ、うれしかった』
「でしょう。ご利益抜群。あたしにも効いたよ。恋愛成就」
 その言葉を無視して、私はさらにホワイトボートに『帆波さんはU高だっけ。共学だね。またもてるね』と書いた。
 それを読んださおりが、私の肩をはたいた。少し怒らせたみたいだ。でも、この子は怒った顔もかわいいのだ。
『帆波さんは、もともと女の子が好きなの?』
 さおりが首をかしげた。
「平田さん以外に好きになった子はいないなあ。でも、胸の大きな人は好きかも」
 こういうことを言う女の子だとは想像もしていなかった。でも、ぜんぜんいやじゃない。
『南沙織って胸大きかった?』
「そうなんだよねえ。平田さん好きになったら、そっちはさめちゃったかな。ブロマイドあげたよね。あんたがあたしと同じ名前だから好きって言ってくれて、それはうれしかったな」
 そんなこと言ったかな。同じ名前だからおぼえていた、とは言ったけれど、と思ったが、ホワイトボードには別のことを書いた。
『一応聞くけど、胸以外で私のこと、どこが好き?』
「……かお」
『じゃあ、私の胸と顔とどっちが好き?』
「そんなの比べらない」さおりがあさってのほうを向いた。「平田さんっていじわるだ」
 恥ずかしがる顔もめちゃくちゃかわいい。でも少しやりすぎたかな、と反省した。私は、調子にのっていた。もっと謙虚にならなくては。彼女の喜ぶことを言ってあげなくては。
『いすゞ湯ってお風呂屋さん知ってる?』
「うん。小学生のとき、家のお風呂がこわれて何回か行ったことある」
 なんでそんなこと聞くのか、という顔。さおりは小学生の私を覚えていないのだ。だって、そのときの私は、胸がまだほんの少ししか膨らんでなかったから。
『今度いっしょに行かない?』
 そう書いたホワイトボードを私は少しそらした胸の前に掲げた。
「な、なに言ってんの」さおりが赤い顔でうろたえた。私はかすれる声で笑った。
 さて、銭湯で私が彼女を見た日のことは、いつ話してあげようか。

(次のシリーズに続く)

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