ふたりのウィタ・セクスアリス

昭和五十×年 由起と早織


 
 <由起>の一 


 東京の映画館に来るのは初めてだ。由起は早織の存在を頼もしく思った。何しろ、これから見ようという映画は、ただの映画ではない。映画を見に行くと言って家を出るとき、由起は母に見る当てのないSF映画のタイトルを告げてきた。
 早織は何も言わずに出てきたという。
「見てもいない映画の内容を兄さんに聞かれるのめんどう」
「そうかあ。私は失敗したかな。ま、SFのほうは混んでいて見るのやめたとかいえばいいか」
 映画館前には行列ができていた。雑誌に書かれていたとおり、女の人が多い。二人は女子大生らしく見える五人組のあとについて、自分たちもその仲間のようなふうで切符売り場に並んだ。
「二枚ください」
 切符を買うのは背が高い早織の役目と決めていた。
「学生さん?」
 窓口の女性がこちらを値踏みするように見る。
「そうなんですけど、学生証持ってきてなくて」
「いいですよ。学生さん二枚ね」
 本当は高校生だけどね。二人で顔を見合わせ、目だけで笑う。
 映画館の中に入ると、ほぼ席は埋まっていた。できるだけ女の人の近くに行こうと事前に相談していたが、心配することなく、席の大部分は女の人で占められていた。さっきくっついていった女子大生グループのとなりに二席空いていたので、二人はそこに座った。
「本当に女の人が多いね」
 早織の耳元で由起がささやいた。「男の人が居心地悪そう」
「両隣を女に挟まれている男もいるけど、あれは両手に花どころじゃないね。あたしだったらいたたまれない」
「どちらかは彼女だったりするんじゃない?」
「えー、カップルでこういう映画見るもの?」
 由起が肘で早織の脇をつついた。「いるでしょ、ここに」
 早織が聞こえないふりをして背筋を伸ばし座り直した。
「あたし、お手洗い行っておこうかな」
「私も行く。席見ておくから、さおちゃん、先行って」
 早織がもどってくるまで、けっこう時間がかかった。
「トイレすごい混んでた。女子トイレ少ないのかな」
「女の客が多すぎるんだよ。あたしも行ってくる」
 トイレから由起がもどると、もう予告編が始まっていた。座っている人にすみません、と小声で言って前を通してもらい由起は席に戻った。これじゃ、途中でトイレに行きたくなっても気軽には立てない。
 予告編は宇宙の映画のものだった。もしかして自分が母に告げてきた映画かな、と思って少しぐらい内容を掴んでおこうかと思ったが、どんな映画なのかさっぱりわからない。そのまま照明が落ちてスクリーン以外が真っ暗になる。由起は思わず不安になって早織の手を握った。早織も握り返してくる。
 宣伝でおなじみになった音楽が流れてくる。そして日本語でタイトルが現れた。
 『エマニエル夫人』
 場内にはりつめたような静寂が訪れた。映画を見るときは静かにしましょう、というお行儀のよさとは別の緊張感のようなものが覆う。由起は音を立てないようにつばを飲み込んだ。
 初めての女性向けポルノ、と銘打ち、フランス映画のファッショナブルな映像美を前面に押し立てての大宣伝で話題となっている映画のことは知っていたが、十八歳未満、つまり高校生でも見られるということは、早織に言われるまで知らなかった。
「すごいきれいな映画なんだって。さすがにフランス映画という感じで」
 はしゃぐ早織が由起には珍しかった。
「なに、さおちゃん、見たいの?エマニエル」
「見たいっていうか、興味ない?」
「だって、ポルノでしょ。私はちょっと」
「恥ずかしい?」
「恥ずかしいっていうか、何だろう。無理じゃない? 見に行くの。ああいう映画って、男の人が見るものでしょ」
「それがエマニエルはちがうんだ。お客のほとんどは女の人なんだって」
 早織の言葉はまちがっていない。雑誌や新聞にもそう書いてあるのを由起は読んでいた。「ねえ、由起、いっしょに見に行かない?」
「ええ、さおちゃん、ひとりで行きなよ」
「ひとりじゃ無理だよ。恥ずかしいじゃん」
「二人なら恥ずかしくないの?」
「由起がいっしょなら、あたしは平気。由起、恥ずかしかったら、あたしが守るから」
「守るって、何から」
「その、由起に変な目使う、やらしい奴とか?」
「お客はほとんど女じゃないの?」
「わかんないじゃん、女の中にも変なのいるかもしれないし。由起かわいいし、狙われるかもよ」
「私を狙っている女には、ひとり心当たりあるけど」
 そういって由起は早織の胸を指さした。早織がだまり、顔を真っ赤にした。



 映画は刺激的だった。生まれてはじめて見たポルノ映画は、何もかもどきどきするものばかりだった。次から次へと繰り広げられる官能シーンに、由起はだんだんと感覚が麻痺してきた。字幕の説明が理解できないところもあり、映画の筋は最後のほうはよくわからなくなったが、いくつかの場面が脳内に焼き付いた。
 映画が終わって、場内がざわめき、由起は隣の早織の顔をうかがった。早織はとぼけたような目で見返してきて、何か言いかけてやめた。
 由起も言葉が出なかったが、沈黙もつらい。

「のど、かわいた」
「あたしも」
 二人は映画館を出て、高級店が並ぶ界隈に脚を向けた。ふだん高校生の自分たちには無縁な場所を歩こうと思ったのは、映画でおとなの世界に触れたような気がしているからだろうか、と由起は思った。はたから見れば、田舎の女子高生なのは丸わかりだろうけれど。
 でも、早織はちがう、と由起は横にいる背の高い同じ女子高生を見て、ふっと息を吐いた。
 この子は本当にきれい。私服でいると、絶対に高校生には見えない。この街を歩いている誰よりも魅力的だ。さっきの映画のヒロインみたいに。
「由起ってさ」早織がちょっと首をかたむけて由起の耳元でささやいた。「さっきの映画の女の人にちょっと似てるよね」
 やめてよ。私なんか。
「……あんなにエッチかな」
「かわいさが。ここら歩いている中でもピカイチ」
 言おうと思っていたことを先に言われてしまった。
 由起は手をのばし、自分よりかなり高いところにある早織の頭をぽんと叩いた。早織がにっこりと笑う。
 結局、映画の中身については、どちらも話題にせず、デパートの屋上でジュースを飲んで家に帰った。

由起が映画のあれやこれやを思い出したのは、夜、ベッドに入ってからだった。

 『エマニエル夫人』を見に行って1週間後、由起は郵便で手紙を受け取った。差出人は、K高の合唱部の部長、前川宏。中身は推して知るべし。
 一年生の秋、K高と由起の通うK女子高は、合唱コンクールで混声合唱発表を行った。そのときの男子校の連絡係が前川で、由起は女子高の連絡担当だった。打ち合わせを何度か行い、当日の発表と打ち上げでもいっしょで、親しく話はしたが、コンクール後には特に連絡もしなかった。K高の文化祭に招待状が送られてきたが、その宛先は『K女子高合唱部様』となっていて、由起やそのほかの誰かを個人的に誘うものではなかった。当日、早織の高校の文化祭もかち合っていたので、由起はそちらに出かけた。それっきり、前川のことは手紙を受け取るまで思い出すこともなかった。
 手紙には、昨年のコンクールのときからの前川の想いが訥々とつづられていた。打ち合わせをしているときはひょうきんな物腰で、合唱中の真摯な歌い方とのギャップが印象的だったが、手紙のほうは歌っている様子のまま、まじめな書きっぷりだった。
 前川に特別な感情を抱いてはいないと由起は思っていたが、自分への好意をなんとか伝えようと書かれた手紙は読んでいて心が弾んだ。
 それが最後に暗転した。
<先日、映画館であなたの姿を見ました。お友達といっしょでしたね。最初は見まちがいかと思いました。ああいう映画を見に来る人だと想像もしなかったので。とても声をかけられませんでしたが、あとから考えて、これは何かの縁ではないか、と思えてきました。あなたを見かけたことは学校の部員には言ってません。映画の感想など、話しませんか。都合のいい日を教えてください。いつでもかまいません。いつまででもお返事待ってます。>
 映画名が書いてなかったが、「ああいう映画」が『エマニエル夫人』のことを指しているのは確かだ。由紀は最近、ほかの映画を見ていない。
 あの日、同じ映画館に前川がいたのか。
 ひょうきんで、まじめ。K高合唱部の部長に対するその印象に、少々不気味なものが加わった。
 はっきり書いてはいないが、自分の要求にしたがわなければ、映画を見たことをばらす、とほのめかしているような気がする。返事を強要する感じも不愉快だった。
 最初は無視するつもりだった。映画に行ったことがばれても、別に法律を犯したわけではない。男子校と女子校で、それほど密な交流があるわけでもない。合唱部同士で行き来がしづらくなるかもしれないが、それだって義務ということでもない。
 だが、手紙を読んだ最初の動揺がおさまると、前川の気持ちが少しいじらしく思えてきた。
 誰に言うつもりもないが、前川の手紙の不器用な表現が、女でありながら女の自分を好きだと告げたときの早織の姿にだぶった。
 人を好きになるとき、みんな不格好になる。自分も同じだ。
 由起は返事を書いた。
<お手紙読みました。正直言って、びっくりしました。前川くんとは合唱コンクールでいっしょにやってきて、こちらのわがままな要求を通してくれたり、いろいろと気をつかってもらって本当に感謝しています。ですが、私に向けている気持ちが、もしも恋愛感情だとしたら、申し訳ありませんが、それを受けることはできません。前川くんも気持ちを打ち明けてくれたので、私も言います。私にはつきあっている人がいます。だから、ごめんなさい。コンクールでまた会いましょう。>
 『エマニエル夫人』のことは無視した。
 それが気に障ったのか、由起が返事を出した数日後に、前川はあきらめるどころか、由起の通うK女子高の校門で待ち伏せるという暴挙に出た。
 放課後の女子高の校門に立つ男子高校生は放置されず、教師が出て行って、そこで何をしているのか、どこの高校か、と問い質した。
 前川は堂々と学校名と自分の名を告げ、合唱部の用で来たが急だったので学校への連絡ができなかった、と殊勝にいった。校門で待っていたのは、相手と行き違いになるのを避けるためだった、迷惑をかけるつもりはなかった、と低姿勢を通した。
 由起が校門を出ようとしたとき、前川は教師と打ち解けた様子で話をしていた。
「前川くん?」
 意外な顔を見て反射的に声をかけてしまってから、由起は後悔した。無視して行くべきだった。
「あ、平田さん、待ってたんだ」前川が話をしていた教師にお辞儀した。「今度浅野先生にお伝えしておきます」
「よろしく言っておいて」教師は手を上げて校舎に戻った。
「何してたの。山川先生に用事?」
「うちの学校の浅野先生って体育の先生と同期なんだって。このところ会ってないけど元気ですか、っていわれて」
 由起、その人だれ、と校門までいっしょに出てきたクラスメートが興味津々、という目で由起と前川を見比べた。
「K高合唱部の部長さん」
 えー、K高?とクラスメートが声を上げる。すかさず前川が名乗った。「前川といいます。K高では、おちこぼれてます」
 なにそれ、聞いてなーい、とまた歓声。
 由起はつきあいきれない。
「それで、前川くん、山川先生との話は済んだんでしょ」さっさと帰れば。
「用があったのは、先生じゃないんだ。合唱部のことで」
 前川が由起を見つめた。由起は目をそらした。
 あたしたち先に行くね。ごゆっくり。わかってるから、という顔をしてクラスメートが立ち去った。
 この場所で立ち話もできない。由起は前川と並んで歩き出した。
 周りに同じ学校の女子生徒も歩いているので、由起は緊張した。男と二人で並んで歩くのは初めてだった。何をしゃべっていいかもわからない。もっとも、会いに来たのは前川のほうだから、話も前川からするものだろう。
 学校からかなり離れたところで、前川が立ち止まった。もうまわりにほかの女子高生の姿はない。
「いきなり来て、ごめん。それから、手紙の返事、ありがとう」
 由起は下を向いて前川の言葉を聞いた。
「はっきり言って、すごいショックだった」前川が小さく笑った。「おれ、実はちょっと自信あったんだよね。平田さん、おれのこと少しは気にかけてくれてるんじゃないかって」
 自分の行動のどこにそんなことを感じさせるものがあったのだろう。由起には心当たりがなかった。
「コンクールの日さ、本番の前におれ、緊張のせいかのどのえへんむしが止まらなくなって、咳こんでたら、平田さんが水持ってきてくれて。おれの分だけ、コップに入れて。すごく感動しちゃって」
 そんなこと、あったかもしれない。
 これからいっしょに混声合唱するときに、テノールのひとりが声が出ないんじゃ困ると思って、水を飲ませた。そう、飲ませたのだ、しっかりしてよ、みんなに迷惑かけないでよ、という気持ちで。そんなことが、女の子からの好意の証だと思うの?
「男子高にいると、女子のそういう心遣いって、ほんと、ぐっときて。もともとかわいい人だと思っていたから、一発で惚れちゃった」
 自分も男への態度に慣れていなかった。女子高で、家でも母と小学生の弟しかおらず、男が女の子のどんな行動に心を奪われるかなんて考えたこともない。
「いつか告白しようと思っていたら、この間、エマニエルで平田さん見かけて。あ、これはもう運命だと思って」
 エマニエルでなぜ運命を感じる。
「前川くんも見に行ってたんだ」少しいやがらせのつもりできいた。
「おれも男だからさ。ああいうのやっぱり興味あるっていうか。でも、本当に女の客が多くてびっくりだった。女の人も関心あるんだなーって、カンシンした」
 受けない、しゃれ。前川の話し方がどんどんとくだけてくる。距離を詰めようとしているのか、それとも本来の素が出てきたのか。由起はいらいらしてきた。もしかして、自分がポルノにカンシンのある女だから、安く見られているのか。冗談じゃない。
「手紙にも書いたけれど。私、つきあっている人いるんだよね」
 前川の顔がゆがんだ。
「それ、ほんとのこと? 彼氏いるって話。おれをふるための作り話じゃないの?」
 うそじゃない、と否定しようとして言葉を飲み込んだ。彼氏はいない。
「振られるのは、まあしょうがない。平田さんには選ぶ権利あるから。でも、嘘つかれるのは腹が立つんだ」
「つきあっている人は、ほんとうにいる……」
「彼氏がいるのに、女同士でエマニエル見に行くかい?」
「女同士で、ああいう映画見に行っちゃいけないの? あんたも見たでしょ。いっぱいいたじゃない、女の客」
「あれ、全部レズだろ」
 冗談だ。反応することはない。
 一瞬、頭の片隅で警報が鳴ったように由起は思ったが、ばくんと大きく収縮した自分の心臓の音にかき消された。
 黙ってしまった由起を、どうした?という顔で前川が見た。由起は顔を上げて睨み返した。
「そうだよ」
「え」
「私ら、レズだよ。悪い? いっしょにエマニエル見に行って。ふたりでデートして。それであなたに迷惑かけた?」
「平田さん……」
「私は、彼女が好き。だからあなたも、ほかの男も好きになれない。ならない。もう、放っておいて」
 呆然としている前川に背を向けて由起は走り出した。顔が熱い。ひょっとして自分が泣いているかと思ったが、充血してそうな目から涙は出ていない。それはそうだ。泣く理由なんかまったくない。そう思ったら、笑い声がのどを突き上げてきた。
「あはは。言っちゃった!」
 がまんできず、由起は声を張り上げた。周りを歩いていた人がびくっとなって振り返ったが、気づかないふりをして、由起は空を見上げた。
 ごめんね、さおちゃん。私たちのこと、ばらしちゃった。
 とんでもないことをしたかもしれない、と思ったのはほんの少しの間で、胸の奥につかえていたかたまりを吐き出して、体が軽くなった気がした。秘密を明かす享楽を由起は初めて知った。
 相手が、あの失敬な前川だったのがちょっと残念だが、どうでもいい人間だから余計な心配もいらない。『エマニエル夫人』を見ていたことも、自分が女を好きだと告白したことも、ばらされることに何の怖さも感じなかった。
 自分はひとりじゃないから。ね、さおちゃん、早織……。
 早織、と小さく口にしてみた。由起は今までその名前を呼び捨てにしたことがなかった。自分の唇からこぼれる恋人の名前のひびきに、由起は陶然となった。
「早織、早織、早織……」
 由起は何度も何度もその名を呼んだ。私の好きな子の名前は、早織。

口から出た音は耳から由起の体に戻り、心臓からの熱い血に乗って体のすみずみまで行きわたる。由起は『早織』で満たされていく。
  


 <早織>の一



 『エマニエル夫人』を見て以来、早織は映画に出てきた女優の裸が頭から離れない。白い肌、形のいい乳房、桜色の乳首。目を閉じると、ありありと再現できる。あんな美しい女(ひと)は日本にはいないと思う。その魅力にみんなとらわれるから、たくさんの女の人があの映画を見に行ったのだ。しかも、その美しい女が、キスをし、あえぎ、体をもてあそばれる。人と人が交わる姿を、つくりものの世界であっても、早織は初めて目の当たりにして、衝撃を受けた。高校生の早織にとって、性の世界を覗けるのはティーン向けの雑誌記事くらいで、成人雑誌や男向けのポルノ映画に触れたことなどない。『エマニエル夫人』で表現された『性体験』は、強烈にリアルだった。
 それでも時間とともに映画の記憶が薄れてくると、それを補おうとするかのように、早織は現実の女の服の下にある体が気になりだした。通学時の電車で、気づくと目の前に座っている女のブラウスを押し上げる胸を見つめている。隣に立っているOLが電車の揺れに合わせて体を近づけてくると体温が上がる。吸い込んだ空気にまざる、女の体臭。吊革につかまって、目を閉じると、今隣にいる見知らぬ女の顔と、映画で見た女優の体が重なる。まぶたの裏で、その顔が快楽に口を開けるイメージが浮かぶ。
 自分は、最初から女を好きだったのではない、好きという気持ちを向けた相手が由起という女の子だっただけで、由起に出会わなければ普通に男を好きになっていてもおかしくはなかった、と早織は思っていた。
 中学の頃、由起という女子に惹かれる自分を悩んでいたが、気持ちを寄せた相手が自分を受け入れてくれたことで早織は解放された。女の自分からの好意を由起が認めてくれたから、早織はそれ以上自分の指向を気にする必要がなかった。
 だが映画で美しい女の肉体に魅せられてから、早織は「女が好きな女である自分」を再び自覚した。まだ由起が一番なのは間違いないと思う。それなのに由起以外の女の体にも目が行くのは、自分でも理解しづらい。自分は由起を裏切っている、心で思っているだけでも浮気をしている。早織は自分を責める。
 由起といっしょにいないとき、他の女を目で追いながら、早織は自分をとてもだめな人間だと思う。ふしだらで、女でありながら、人一倍性欲の強い、色情狂、とまで自分を罵る。
 レズといっしょにクラブ活動なんかできないといったバレー部の先輩は、自分については正しいことを言ったと早織は認めざるをえなかった。ついこの間まで、なんでもなかったクラスメイトの着替えが、早織は平常心で見ることができなくなっていた。何人もの下着姿の女子高生の中にいる自分が息苦しくなり、「どうしたの、顔赤いよ」と指摘され、大急ぎで更衣室を抜け出したこともあった。
 由起には告げられない女の体への渇きが高じて、早織は部屋の姿見の前に立ち、服を脱いだ。自分の全身の裸を鏡に映したのは、幼いころの銭湯での着替えの時以来だ。そういえば、由起は子供のころのあたしを銭湯で見かけたといっていた。
 由起はあたしの体をどんなふうに見たのだろう。早織は他人の裸を見るように、鏡に映る少女の姿を眺めた。自分の知らなかった、自分の体。白い肌、薄く筋肉のついた肩と腕、形のよい胸と、その頂上にある桜色のつぼみ。上から見下ろすときは見えない、乳房の下の丸みが本当に見知らぬ人のもののようだ。ぺたんとしたおなか。縦長のおへそも正面から始めて見る。そして股間をおおう黒い茂み。
 きれい、と早織は思った。この鏡の中の裸は、とてもきれい。
 自分の裸を自ら愛でるうちに夢の中で離脱した魂が自分の体を見ているように現実感が薄れていき、早織は鏡に映る胸に手を伸ばした。鏡面に触れた指先の冷たい感触にびくっと手を引き、今度は自分の胸に触れた。電流が走り、鼓動が早まる。早織の触れている乳房は、知らない女の子のもの。鏡の前に体をくねらせているのはどこかで見かけた美少女。早織は自分の体を他人の指でまさぐった。声がもれる。背中がまがる。股間は熱い海。
 思わず閉じた目を開けると、鏡に由起が映っていた。由起があたしの指で感じている。早織は自分の体を通して由起を愛撫していた。
 今まで、どんなに由起を想っても、由起の裸は想像しないようにしていた。あまりの輝きで、体なんか見えないという未熟なタブー。でも自分の体を通して由起に触れる夢想をしてから、まだ目にしたことのないはずの由起の体を早織はあざやかに思い浮かべるようになった。
 早織は由起と会っているときも、目の前の肉体を意識するようになった。由起のおしゃべりにあいづちを打ち、いっしょに笑い声を上げながら、早織は由起の裸が見たい、と心で呟く。その欲求は少しずつ大きくなってゆく。この思いをいつか遂げるときが来るのか、早織には見当もつかない。
    

 注文を取りに行ったら、「あれ、帆波じゃん」と声をかけられた。
「ここでバイトしてんだ」
 知っている顔だった。
 早織がメニューを出すと、U高の制服の女子高生はそれを前に座っている男子高生に手渡した。「あたしコーヒー。あんた適当に選んで」
「落合さん、だよね」
「へえ、あたしの名前覚えてくれてるんだ。うれしいね。全然話したことないのに」
 だって有名人だもの、あんまりいい評判じゃないけど。早織はそれは口に出さず、
「家はこの近くなの?」ときいた。
「あたしんちは学校のほう。ここはこいつの家が近いんだ」
「おれ腹減ったからオムライス」
 髪を長くした男子高生がメニューを早織に返した。
「えー、ごはん食べるの? 言っとくけど、自分の注文した分は自分で払うんだからね」
「はいはい」男は店のマンガ本を読み始めた。
「お先にコーヒーお持ちしました」
 早織がテーブルにコーヒーを運んでくると、落合万里子が芸能雑誌から目を上げた。
「ありがと。ねえ、帆波はいつからここでバイトしてるの?」
「もう三か月になるかな」
「毎日?」
「週三回。月水金だけど。何で?」
「別に。きいただけ」
 客と長話はできない。ごゆっくり、といって早織は厨房に戻った。
 手が空いているとき、万里子のテーブルをちら、と見ると、ふたりは黙ってそれぞれの雑誌を読んでいる。万里子のコーヒーは半分残り、男のほうのオムライスはもう食べ終わっていた。
 落合万里子は派手な同級生だ。パーマをかけ、化粧もしてくる。学校をさぼりはしないが、授業中は寝ていることが多い。見た目の派手さもあって、相当遊んでいる、と噂されていたが、学内で男子とつるんでいる姿は見かけなかった。こうして、外で会っているわけだ。相手の男子は見たことがないから、他校の生徒なんだろう。顔はまあまあかっこういいほうか。早織には男の容姿がよくわからない。
 一時間ほどで万里子たちは店を出た。会計は男のほうが全部払った。自分で注文した分は自分で払うと言っていたのでは、とレジを打ちながら早織は思ったが、もちろん口にはしなかった。
 店を出るとき、万里子が「コーヒーいくらだった?」ときいてその分を小銭で男に渡した。いいよ、おごるよと男は言わず、黙ってお金を数えて財布にしまった。
 なんてことのないそんなやりとりが好ましくて早織が微笑んでいると、「じゃあね」と万里子が手を振った。早織も小さく手を振って応えた。
 次の日、早織は下駄箱で万里子に声をかけられた。
「今日はバイトない日だよね。放課後ちょっとつきあわない?」
 今日は帰って夕食の支度をしなければならない。バイトのない日は早織の役目だ。昨日喫茶店で言葉を交わすまで、ほとんど接点のなかったクラスメートの誘いに戸惑いもあった。
「ごめんね。今日はちょっと用事あるんだ」
「そっか。じゃ、そこまでいっしょに帰ろ」
 万里子が肩を並べて歩き出した。
「珍しいね、落合さんがあたしに話しかけてくるの。何か魂胆があるよね」
「はっきり言うね。U高の孤高のマドンナと仲良くなりたい、じゃだめかな?」
「誰がマドンナよ。変なこと言わないで」
「変ってことないでしょ。帆波、めちゃめちゃ人気あるじゃん」
「そういうの、いいから」早織は真顔で万里子を見た。「で、なに?もしかして、昨日の彼のこと?」
「あたり」万里子が手を合わせた。「お願い。誰にもあいつといたこと言わないで」
「別に言うつもりもないから、いいけど。でも、なんで?かっこいい人じゃん。他校の男子でしょ。隠すことないのに」
「あいつ、星野っていうんだけど、ああ見えてK高生なんだ」
「へえ、すごいじゃん。頭いいんだ」
 K高はこのあたりではダントツの進学校だ。確かに、早織のバイト先に学校が近い。
「そうなんだ。頭いいだけじゃなくて、すごくいいやつ」その言葉のあと、万里子の歯切れが悪くなった。「だからさ、つきあってるのがあたしみたいなんだと、ちょっとかっこうつかないっていうか、釣り合わないっていうか」
「どういうこと? 落合さんだと、そのK高生の星野くんにふさわしくないから、つきあってること、隠すの? 星野くんが言うの? 自分とつきあってること言うなって」
 万里子が黙って首を振る。
「じゃあ、隠すことないよ。落合さん、すてきじゃん。星野くんだって、落合さんのこと、好きなんでしょ。ふたりのことだからあたしがとやかくいうことじゃないけど、黙ってろって言うなら黙ってるけど、あたしは気に入らない!」
 万里子があっけにとられたように早織を見た。
「帆波が怒るとは思わなかった」
 早織にも自分が腹を立てる理由がわからない。
「あたしだったら、堂々と宣言するよ。彼は天下のK高生ですって」
「天下のは言いすぎ。あたしたちいっしょの中学なんだけど、あいつ、中学の時は全然普通のやつでさ。モテるタイプではまったくなくて。それがK高入ったら髪伸ばしたりして色気づいたっていうか。色気づいたのはこっちもなんだけど」
 万里子がパーマのかかった髪をくるくると指でもてあそんだ。からりとした口調がもどってきた。
 人の惚気話を聞いていたら早織も由起のことを自慢したくなった。あたしの彼女は進学校のK女子です。中学でもかわいかったけど、高校入ったら色気づいちゃって、大変なんです。
「……言わないけど」
「え?」万里子が早織の顔を覗き込んだ。
「なんでもない。……いいよ、落合さんが自分でいいと思えるまで、星野くんのことは言わない。っていうか、もともと誰かと誰かがつきあってるとか、あまり気にしてないし」
「さんきゅ。あたしももう少し自分に自信持ってみるよ。あいつにも悪いし」万里子が立ち止まった。「帆波に話せてよかった……。あのさ、あんた、女が好きって、ほんと?」
 いきなりの言葉だった。早織は息を止めた。
 だめだ、だまってちゃ。ちがう、って言わなきゃ。
「なに、それ……」
「女子の一部でそんなこと噂してるのがいるんだ。帆波、もてるのに誰ともつきあわないから」
 どうして学内でボーイフレンドを作らないと、レズだと決めつけられるんだ。学校の外に、たとえばうんと年上のおやじとできてるという可能性のほうがありそうだ、となんで思わない?
 それとも、自分で気づかないだけで、周りの女の子を見るあたしの目はわかりやすくがつがつしてたりするのだろうか。さかりのついた男子連中のように。
 そんなことを考えたら力が抜けてきた。
 もう、どうでもいいや。
「ほんとだよ……あたし、女の子とつきあってる」
 万里子が黙った。気持ち悪い、と言われるんだろう。早織は身構えた。 
「そうか。そうなんだ。帆波らしい……っていったら失礼か」
 あっさりとした万里子の言葉に、早織はかえって拍子抜けした。
「気持ち悪いって思わないの」
「ちょっと想像つかなかったけど、帆波が誰か好きな人がいるって聞けて、そっちのほうがよかったかな。帆波みたいなきれいな子が、独り身でいるのも見てて切ないし。外で汚いおやじとできていたらそっちのほうが気持ち悪いから、まあ女の子好きなほうがましか」
「そういわれると複雑だけど」早織が吹き出した。「ありがとう」
 あたしの、自分たちの想いを認めてくれた人がいる、そう思ったら早織の目から涙がじわりと溢れてきた。
 由起と二人なら耐えられる、二人だけで立ち向かうと覚悟していた殻が、はらはらと落ちていく。万里子が見ないふりをするように目をそらしたが、ハンカチを目に当てている早織は気がつかなかった。
「ひとつだけききたいんだ」
 万里子の声に早織が顔を上げた。
「怒らせたらごめん。帆波から見てさ、あたしもレンアイの対象になったりするの?」
 早織は腫れて赤くなった目でまじまじと万里子を見た。
「ごめん。申し訳ないけど、友だちとしか見れない」笑って答えた。
「そうなんだ。何か感じたりしない?」
「全然しない。安心していいよ」
「そっか。ちょっと悔しいような、ほっとしたような」万里子が鞄をぐるんと振り回して肩にしょって、右手を差し出した。
「じゃ、あたしら、友だちってことでいいよね。昨日話したばっかりだけど」
「うん」早織も手を出し、軽くにぎった。友だちの握手。由起以外の、女の手。
「今度、帆波の彼女紹介してよ。ダブルデートしよ。あ、そっちが女ふたりだと、あいつが舞い上がるからだめかな……」
 万里子と別れて、日の暮れかかる道を歩きながら、今の話を由起に伝えるかどうか、早織は考えた。由起ならきっといっしょに喜んでくれる。でも、心配性のところがあるから、やたらと人に自分たちの関係を話すことはやめたほうがいい、とたしなめるかもしれない。
 世間の目の冷たさは、バレー部の先輩がしっかりと教えてくれた。自分たちの気持ちは自分たちだけがわかっていればいいと早織は思っていたし、秘め事を抱えている歓びみたいなものもあった。それが、由起の自分への想いに確からしさを感じるようになると、ふたりの関係を誰かに認めてもらいたいと早織は思うようになっていた。
 落合万里子のように、この先、自分たちの関係をみんなが理解してくれるとは限らない。女同士でつきあうなんておかしい、と言われたら、自分は由起を守ることなんてできるのだろうか。レズだといわれて、泣き出す由起は見たくなかった。
 もっと怖いのは、人から投げつけられる悪意に負けて、自分たちはそんな関係じゃない、と否定してしまうことだ。あたしたちは、ただの友だち、仲のいい親友です、恋人同士なんかであるわけない、あたしがそう言い訳してしまったら。考えたくはないけれど、由起がもし、あたしの目の前でそんな残酷な宣言をしたら。
 あたしは、きっと生きていられない。


 <由起>の二


 校門を出て五十メートル歩いたところで、横から「平田さん」と声をかけられた。
 前川だった。
 しまった、校門にいなかったので油断した。由起は心の中で品のない舌打ちをした。
 別に警戒していたわけではないけれど。それにしても、校門だとまた教師に詰問されると思ったのか、姿を見られたら避けられるかもしれないと予想したか、「校門から少し離れて待つ」という前川の単純な戦略にはまった自分が由起は腹立たしかった。
 無視して通り過ぎようとしたら、前川が由起の進路に回り込んだ。
「平田さん、この間はごめん!」腰を九十度曲げてお辞儀をした。
 相手をせずに歩き続ける由起の腕を前川が掴んだ。
「放してよ!」もう無視できない。
「ほんとにごめん、すみませんでした!」
 由起が腕をふりほどくと、前川がこれ以上はない、というほど情けない顔で由起を見た。このままだと土下座までやりかねない。はっとあからさまにため息をついてみせ、由起は前川に向き直った。
「別に、私怒ってないから」
「ほんとに?」
 これ以上つきまとわないで、と続けようとした矢先に、前川が脳天気な調子ででことばをかぶせてきた。
「よかったー、俺、ほんとにもうだめかもと思った。平田さん、絶対許してくれないだろうってあきらめてたけど、思い切って来てみてよかったー」
「ちょっと、前川くん、こんな場所で大声出さないでよ。みんな見てるじゃない」
 校門はすぐそこだ。K女子高の生徒がくすくす笑いながらふたりの横を通り過ぎて行った。
「話あるなら、里山公園に行ってて。あとで私も行くから」
 学校からは、駅と反対方向にある公園を指定した。この場所でレズだなんだと話されるのはさすがに気まずい。
「え、いっしょに行こうよ」
「あんたといっしょに歩いているところ、見られたくない」
 由起の言葉に頬をはたかれたような顔をして、それでも元気のいい足取りで前川が走っていったあとを、由起はわざとゆっくり追った。すっぽかしてもいいのだが、きっとこりずにまた待ち伏せするだろう。決着は早いほうがいい。
 桜のころは花見客でにぎわう公園も、緑が濃くなる今の季節は人の姿もさほど多くない。子供を遊ばせている母親、散歩している老人、ベンチで居眠りしているワイシャツ姿の男。制服姿のカップルもちらちらといる。
 自分たちもそう見えるかもしれない、と由起はベンチの端と端に離れて座っている前川を見た。前川はあからさまにうれしそうな表情でベンチの背にもたれて、空を見ている。
「それで、何の用?私、前川くんとのおつきあいは断ったと思うけど」
「それなんだけどさ」前川がぐっと体を寄せてきて、声を落とした。
「改めてきくけど、平田さん、女の子とつきあってるって、ほんと?」
「改めて答えるのもなんだかいやなんだけど、ほんとだよ。私が好きなのは女の子。わざわざそれを確かめに来たの?」
「そうか……。この前、いきなり平田さんからそんなこと聞いて、おれ混乱しちゃって。予想もしていなかったから、失礼なこと言って、平田さんを怒らせちゃって」
 由起は少し肩の力を抜いた。前川の話し方から、同性愛をからかうつもりはなさそうだと思えた。
「まあ、いきなり『私は女の子が好きなの』っていわれたら、びっくりするよね。それも告白している相手からだもの」他人事のように由起が言うと、前川が苦しげな声を出した。
「いつから、平田さんは女の子を好きな対象としているの」
 そんなこと、なんで答える必要があるのか、と返そうとしたが、前川は真剣な目をこちらに向けていた。由起は前川から視線をそらして続けた。
「さおちゃん、あ、私の好きな子の名前ね。早織っていうんだけど。その子のことは、小学校のころから気になってて、本格的に好きになったのは中学の時。つきあいはじめたのは中学卒業してから。そう考えると、けっこう長いつきあいかも」
「これまで、男をいいな、と思ったことはないのかな」
「ないかな。男子に告白されたことはあったけど、さおちゃん以外は目に入らなかった」
「あのさ、怒らせたらごめん、なんだけど」
「なによ」
「平田さんが、その、早織ちゃん?に向けている気持ちって、ものすごく深い友情とはちがうもの?」
 すぐに言葉が出てこず、由起は前川をまじまじと見た。
 この人、頭いいかも。やっぱりK高生だ。
「私がさおちゃんに向ける気持ちは、友だちの好き、じゃないか、そういうこと?」
「すごく仲のいい友だちなら、恋愛感情に似た気持ちになることもあるんじゃないかな。ほら、平田さん、男を好きになったことないと言っただろ。もし男を好きになった経験があれば、女の子を好きになったとき、比べられるんじゃないかな。相手を好きだという気持ちが、友だちの好きか、恋愛の好きか」
「キスをできるかどうか」
「え」
「相手とキスできるかどうかが、友情と恋愛の違い。聞いたことあるでしょ。男の子はもっと直接的か。やれる、やれない」
 前川が目に見えて狼狽した。由起のような女子から、そういう言葉が出てくるとは予想していなかったらしい。その様子が、困ったときの早織に似ている、と由起は少しおかしくなった。
「わかんないよ、私にだって」
 自分の早織への好意が友情なのか、普通は男に向けられる恋愛感情と同じものなのか、由起は何度か考えた。いっしょにいて楽しい、ずっといっしょにいたい、離れていると声が聞きたくなる、顔を見たくなる。そういった気持ちは、仲のいい友だちへ向かうものだといわれたら、自分の早織への好意はもしかすると友情と呼ばれる範囲に収まるのかもしれない。でも、由起は自分の早織への気持ちのひとつひとつに、これまで周りにいた女友だちに向けるものとはちがった、とがった先があることを自覚していた。その切っ先は甘いばかりでなく、ときに心を苦しめた。いっしょにいて楽しいのに、苦しい。ずっといっしょにいたいのに、このままいっしょにいると窒息しそうになる。離れていて会いたい気持ちで胸が焦がれる。もしこの感情を友情というのなら、友だちのいる世の中の人たちはなんてタフなんだろう、と由起は思った。小学一年生になったら、友だちは百人つくるのが理想? こんな感情を百個も持てるはずがない。
 仮に自分の早織への感情が、女の友情の一種だとしても、自分にとっては唯一無二の想いであることは確かだ。

「私は友情でも恋愛でもどっちでもいい。さおちゃんといっしょにいられれば」
「だったらさ、おれもまだ期待できるよね」前川がベンチから立ち上がった。
「平田さん、男の人をまだ好きになったことないっていうなら、おれがその初めての男に」
「やめてよ、何で? 前川くんが初めての男って、何言ってんのよ」
「あ、ごめん、その変な意味じゃなくて、もしかしたら平田さんが男を好きになるときが来たら、そこに自分がいたらチャンスあるんじゃないかと」
「私、前川くんとつきあう気ない」
「いいよ、つきあうってことじゃなくて、これまでどおり、合唱部の活動とか、勉強とかいっしょにやれれば。おれ、平田さんたちのこと、妨害したりしないから。だから、そう、おれも平田さんの友だちにしてよ」
「……私は、女の子が好きなの」
「それはわかった」
「男の子は好きにならないと思う」
「うん」
「もし、万にひとつ、男の子を好きになったとしても、それが前川くんとは限らない」
「それは、辛いなあ」
 そのあまりにも情けなさそうな声に、由起は吹き出した。「前川くん、おもしろいね」
「そうだろ。おれといるとたぶん楽しいと思う」ころころと前川が表情を変える。「じゃ、友だちからということで。よろしく」
 いいと言ってないけど、まあいいか。由起が前川に向けていた敵意のようなものはもうどこかに行ってしまった。少なくとも、この人は、女を好きだという自分の言葉を、ちゃかさずに受け止めてくれた。どうも理解しているとは言い難かったが。
「あと、ひとつだけ言っとくけど」
「なに?」
「さおちゃんに惚れたら、殺す」由起の口から出た物騒な言葉に、前川の笑顔が凍り付いた。
「なあんてね。でも、だめだからね。さおちゃん私のさおちゃんだから」
「おれだって、平田さん一筋だから。心配ご無用」
 由起は笑いながら、自分の心に一瞬浮かんだ、早織と親しくする男の姿に抱いた激しい感情におどろいた。



「あ、さおちゃん、帰ってたんだ。ごめんね、疲れてるときに電話して」
『だいじょうぶだよ。今日は早上がりだったから、だいぶ前に帰ってご飯食べて、もうお風呂も入った』
「バイト大変じゃないの? おうちのこともしてるんでしょ」
『最初ほどじゃないよ。始めたばかりはとにかく立ちっぱなしがつらくて、由起に電話して、もうやめるーって愚痴ったけど』
「やめちゃえ、って私がいったら、さおちゃん、逆にむきになったから」
『だってさ、バレー部もやめて、ひまだから始めたバイトもすぐやめるんじゃ、いくらなんでも自分の『女がすたる』って思って』
「『男がすたる』じゃなくて?」
『あたし女だし』
「すたる、ってどういう意味か知ってる?」
『知らない。すっぱくなるとか?』
「ははは。あのね、すたる、って『衰える』って意味なんだって。『男がすたる』のは、男としての価値が衰える、ということ。女がすたる、っていえば、女としての価値が下がるってことになるのかな」
『そうなんだ。なんとなく、自分がかっこ悪くなる、って意味だと思ってた。女の価値なら、別に下がってもいいかなあ』
「さおちゃんの女の価値は、絶対に下がらないよ。私が保証する」
『あはは。ありがと。……ええと、何の話だっけ?』
「バイト、大変じゃないか、って話。女の価値はともかく、疲れて体壊したら大変だから」
『今は体は全然しんどくない。お客さんも常連の人が多いから、けっこう慣れたし』
「さおちゃんのバイト先って、高校生も来るんでしょ。同じ学校の子とか来ても平気なの」
『うちの学校はバイトにそんなにうるさくないから、同級生に見られても関係ないけど。駅がふたつ隣だからかな、ほとんど来ない。この間、クラスメートが来たけど。彼氏連れで』
「へえ、そういうとき、どうするの?見ないふりとか?」
『向こうから声かけてきた。ちょっと派手な子でさ、ものおじしないっていうか……。そうだ、その子にあたし聞かれたんだ』
「何を?」
『女が好きってほんとか、って』
「え」
『あたしのこと、そういう噂しているやつがいるけど、どうなんだって』
「……それで、さおちゃん、なんて答えたの」
『そうだよ、って。一瞬は迷ったんだけど、ここでうそついたら、ずうっと隠していくことになるのかな、それはいやだな、って思ったら、ぽろっと言っちゃった』
「その子に何か、言われた?」
『あたしに好きな人がいて、あたしが独りぼっちじゃなくて、よかったって』
「……そっか」
「ごめんね、由起の考えも聞かずに、あたしが勝手にばらしちゃって。でも、落合さん、あたしの同級生の子は、黙っていてって言えば誰にも言わないよ』
「さおちゃんには、すてきな友だちがいるね……」
『うん。ねえ、由起』
「何?」
『やきもち、やいてる?』
「あたしはさおちゃんを信じているから。あのね、さおちゃん、実は私もさおちゃんとのこと、人に言っちゃった。男子なんだけど」
『男?』
「うん。K高の合唱部の部長。前川くんという名で、ほら、手紙もらった話、したじゃない。<エマニエル>見に行った私たちを見かけたって」
『由起は断りの返事だしたんだよね』
「それがうちの学校の前で待ち伏せしていて。つきあっている人がいるなんてうそじゃないかとか、<エマニエル>見に来ていた女同士の客はみんなレズだとかいうから、かっとなって」
『なにそれ』
「それで、私も女の子とつきあっているけど、悪い?って」
『言っちゃったんだ』
「いきおいで」
『由起』
「ごめんね」
『ううん。えらいよ! よく言ったね! 大好き!』
「知ってるよ」
『由起は、冷静だね。そんな由起なのに、男からレズだと言われて切れちゃうんだ。その前川くんだっけ、それからどうしたの?』
「びっくりしたみたいだけど。それがね、何日かして、またうちの学校に来て、友だちでいいから時々会ってくれって」
『めげない人だね』
「想像だけど、たぶん私たちのことが理解できていないのよ。本気にしていないというか、女同士の恋愛なんてうそだと思っている。もし男とつきあっていると言ったら、さっさと身を引いたんじゃないかな」
『そうなのかな……』
「こっちで証明してみせるようなものじゃないけど、本気にされないのも悔しいから、今度さおちゃん連れていって、目の前で思い切りイチャイチャしてみようかな」
『それ、いいね。あたしも人前で由起とイチャイチャしたい』
「<エマニエル>みたいに?」
『<エマニエル>みたいに!』




<早織>の二 


 
 高校二年の夏、由起の合唱部の練習と、自分のアルバイトの時間を調整して、早織はひんぱんに由起と出かけた。
 買い物に言ったり、お茶をしたり、映画も(ポルノではない)見に行ったり、女友だち同士がするように、時間を過ごした。
 由起の話は面白く、声は耳に心地よかった。早織がときどき口にする、ピントの少しずれた冗談にも由起はころころと笑った。由起を笑わせることができると早織は調子にのり、さらにテレビで見たタレントのものまねをしてみせ、「さおちゃんは、そういうの似合わないよ」と由起を呆れさせた。
 傍から見れば普通の友だち同士だが、早織は友だち同士ではありえない想いを由起に向けている。
 体が見たい。肌に触れたい。
 薄着の季節になって、首や腕の露出が増えると、温度計の目盛りに合わせるように早織の渇きも強まった。由起の額の汗に気がついて、きれいだな、と思うそばから、それを舌ですくいたい、と思う。由起のワンピースの背中が汗で肌にはりついていると、下着の線にそって指を這わせたくなる。
 そんなことを考えながら、由起の世間話を聞いていると、日常と欲望の境界があいまいになってくる。いきなり由起にさわってしまいそうな自分が早織はときどき不安になる。
「……見て行かない?」
 由起の言葉に、早織は視線を送っていた由起の半袖の脇から慌てて目を上げた。
「ごめん、なんだっけ?」
「ここ。ちょっと寄っていこうよ」
 由起が早織の手を引いた。
 ふたりはオープンしたばかりの『ダイエー』に来ていた。
 スーパーマーケットだけでなく、衣料品や家電製品も取り扱っている8階建ての新しい店で、デパートと同じようにレストランのフロアや子供の遊具乗り場も揃っている。高校生の興味を引くものはそれほどないが、物珍しさからふたりは店内のあちらこちらを歩き回っていた。
「ちょっと、ここ下着売り場じゃん。何でこんなとこ」
 店の前で早織が足を止めた。去年の夏の水着売り場といい、由起はこういう買い物にやたらと早織をつきあわせたがる。
「だって特売だよ。かわいいのありそうだし」
 家族は父と兄だけだから、早織は下着を自分で買っている。下着売り場に来ることは別になんでもないが、由起といっしょだと照れ臭い。
「うちさあ、下着って全部お母さんが買ってくるんだ。大人用ではあるんだけど、地味なのばっかり。自分でこういうところ来たことない。すごいね、いろんな種類がある」
 由起はブラジャーを手に取って、自分の胸に当てた。
「似合う?」
「ばか」早織がうろたえて顔を横に向けると由起はけらけらと笑った。
「でも、高いんだね、こういうの。安いのはあっちかな」
 由起がすたすたとフロアの反対側を目指して歩き出し、早織もしぶしぶ後を追った。
「このあたりのはそこそこの値段だ」
 由起がいくつかを手に取って値札を見た。
「どうしようかな、せっかくだから、買っていこうかな。さおちゃん、どう思う」
「気に入ったなら買えば?」
「さおちゃんは?」
「あたしは、いい」
 試着されますか、と女性店員が声をかけてきた。
「試着できるんですか?」
 由起がものおじせず、自分の母親くらいの年恰好の店員にきく。
「サイズが合わないと苦しいから、ちゃんと見たほうがいいですよ」
「じゃあ、お願いしようかな。さおちゃん、待っていてもらっていい?」
「どうぞ、ごゆっくり」
 由起が品物をもって、店員と奥の試着コーナーに向かった。早織はその場で、手持ち無沙汰に陳列してある商品を眺めていた。
 しばらくして、まだ時間がかかるかな、と早織が試着コーナーに目をやると、カーテンが少しだけ開いて、由起が頭だけ出して、さおちゃん、と呼んだ。
「どうしたの?」
 早織がカーテンの前に立つ。
「どうかな。見てくれない?」
 由起はそういうとカーテンを少しだけずらして、由起を招いた。
「え、あたしいいよ。由起が気に入ったなら買いなよ」
 早織は動けずにいた。
「お願い」
 由起の頼みは断れない。早織はちらっと店内に目をやり、誰もこちらを見ていないことを確かめて、試着コーナーに体をすべりこませた。
 ブラジャー姿の由起がいた。下着で抑えられた形の良い胸が、くっきりと谷間をつくっている。想像していたより、ずっと豊かな膨らみを目の当たりにして、早織は息ができなくなった。
「どう?変じゃない?」
 由起が腕を背中に組み、胸をそらしてポーズを作った。
「いいんじゃない」早織の声がかすれた。「大人っぽいね」
「これ、付けててすごく楽。今のブラ、小さいのかもしれない」
「成長期だね」
「そうなの。太って困っちゃう」
「由起はぜんぜん太ってないよ……。じゃあ、それに決める? あたし外で待ってる」
 のぼせたようになり、早織は外のエアコンの吹き出し口で体を冷やした。
「お待たせ」由起が戦利品の入った袋を掲げてレジから歩いてきた。「ちょっと奮発しちゃった。今月のお小遣い、これでおしまい」
「お疲れ様。そうだ、それ、あたしがプレゼントしようか?もうすぐ由起の誕生日だよね」
「ありがとう。でも、いい。こっちはお母さんからのプレゼントにしてもらう。さおちゃんには別のものを頼もう」
「何がいい?」
「考えとく。ね、さおちゃんは本当に買わなくてよかったの?」由起が袋をもう一度持ち上げた。「さおちゃんの試着、私も見たかったのに。ずるいよ、私のだけ見て」
「ごめんね」
 見てといったのは由起でしょ、とはいわなかった。
「あたしが見てほしいって言ったんだけど」
 由起がにやにやと笑った。
 からかわれてる、と思った早織は、話を変えた。
「由起は誕生日、予定あるの?」
「合唱部の合宿なんだ。軽井沢」
「そうなんだ」
 いっしょには過ごせないのか。早織は少し落胆した。
「高校生にもなって、誕生日でもないけどね」
「十七本目からは、いっしょに火をつけたかったな」
「何それ」
「『二十二歳の別れ』。そういう歌詞があるんだ」
「なによう。二十二で私と別れるって、そういう話?」
「ごめん、そんなつもりじゃ。ただ、毎年の誕生日にケーキ買ってお祝いするって素敵だな、と思ったから」
「去年の夏はさおちゃん、バレー部で忙しかったものね」
 早織が学校のバレー部を辞めたのは、去年の由起の誕生日直後だった。女を好きな女とは活動できないといわれて部を追われた直後は気持ちが荒んだ時期もあったが、おかげで由起といられる時間が増えた。今年の誕生日くらい、別々だからといって、どうということはない。
「楽しそうだね、軽井沢」
 早織が言いかけると、由起が少し改まった調子で言葉をかぶせてきた。
「さおちゃん、別の日でよければ、誕生日のお祝いしてくれる?」
「もちろん」喜んで、と早織が顔を上げる。
「合宿の次の週、お盆でお母さんたち、田舎に行くの。私、留守番するから、うちに来てくれる?」
「いいの?」
「ひとりだと、心細いから。さおちゃん、泊まりに来て」由起はそういうと、下を向いた。それからおずおずと手を伸ばし、早織の手をにぎった。「誕生日の、お願いはそれ」
 由起の提案の意味をすぐに悟り、早織の心臓がまた早くなった。
 由起といるといつもこうだ。さっきの試着と言い、今の話と言い、こうも刺激ばかり受けると、心臓が持たない。
 長い夏の日も暮れかかり、早織が家に戻る時間になった。今日は夕食の支度をする日だ。
 由起と離れがたくて、早織はぐずぐずと公園まで歩いてきた。
 誕生祝の話をしてから、由起への思いが高まってどうしようもない。
 キスできないかな。
 早織は由起が受け入れてくれるかどうか、雰囲気を探っていた。
「さおちゃん、私トイレ行ってくるね。さおちゃんもそろそろ帰る時間でしょ。ここでいいよ」由起が早織の手を取った。「電話するね」
 宙ぶらりんの気持ちのまま公園のトイレに向かう由起を見送っていた早織は、由起が女子トイレに入ると、自分もトイレに歩き出した。
 3つの個室のひとつが使用中で、あとの扉は開いていた。由起がその一番奥の個室にいる。
 早織は閉じている扉の前に立った。中から小さな水音が聞こえた。早織は息を止めた。誰もいないと思っている由起が、音を消すためにトイレの水を流していなかった。
 由起の、おしっこの音。
 目を閉じた早織の瞼に、試着室の由起の姿が蘇った。白い布に覆われた肌色のふくらみ。
 自分が何をしているのか、早織はわからなくなり、トイレで立ち尽くしていた。人は誰も入ってこない。
 水を流す音がした。内ロックがはずされ、扉が半分開いた。目の前に立っている人影を見て、由起がぎくりと体を震わせた。
「さおちゃん……? さおちゃんもトイレ、待ってたの?」
 早織は由起の体を押し戻し、自分の体を個室に滑り込ませ、後ろで扉をロックした。その勢いのまま、由起を抱きすくめ、両手で由起の頭を押さえ、唇を由起の口元に押し付けた。
「……いっ」食いしばった由起の歯に唇が当たる。早織が閉じた口を開け、由起の顔を吸った。
「由起、由起」
 抵抗していた由起の体から力が抜けていく。トイレの壁に背をもたれかけ、由起も口を開いた。早織が舌を差し込む。由起がおずおずと舌先で応える。
「由起……」
 早織は由起の胸に手を伸ばした。由起が体をびくっと震わせた。それに反応して早織がふくらみをにぎると、由起が小さく声を出した。
「痛い?」
 早織のささやきに、由起が首を振った。それに力を得て、早織は由起の胸を揉む手に力をこめる。由起が体をのけぞらせる。
「由起、好き、大好き」
 早織が熱に浮かされたようにつぶやき、右手で由起の肌を探した。ワンピースには布の隙間がない。早織は由起のワンピースの裾をまくり上げた。
 突然、由起が強い力で早織の手を掴んだ。吸われていた口を外し、声を漏らした。
「こんなとこじゃ、いやだ」
 早織は体の動きを止めた。
 錐で突かれたような痛みが胸を降り、下半身のいちばん熱い部分んを貫いた。
 瞬間のオルガズム、そして押し寄せてくる恥辱感と後悔。
 早織は体が千切れるような気がした。
「ごめん」早織は由起から離れた。「あたし、またこんなこと」
 一度由起の部屋で抱きついて、無理やりキスしたことがあった。そのときの何倍もひどい自己嫌悪に早織は襲われた。
 後ろの壁に手をついて、由起が体を起こした。
 大きく息を吸って、吐く。もう一度。
 三回深呼吸して、由起は硬い笑顔を早織に向けた。
「びっくりした」
 うつむいていた早織は由起の声に顔を上げた。
 由起のあごが光っていて、それが自分のつけた唾液のあとだとわかるとまた早織は下を向いた。
 涙がトイレの床に落ちた。
 なんで自分が泣くのだ、襲われた由起ではなくて。
 そう思ったら、涙が止まらなくなった。でも今の自分に涙を拭く資格はない。声を出さず、歯を食いしばって早織は泣いた。
 由起が早織の横から個室の扉の内ロックに手をかけた。少し外のようすをうかがい、ゆっくりと扉を開け、誰もいないことを確認してひとりで外に出た。
「私帰るね」
 涙を流し続けている早織を置いて、由起は歩き出した。ハンカチも出さずに。
 トイレを出た由起が、走り出す足音が聞こえた。追いかけることは早織にはできなかった。
 


<由起>の三


 
 合宿から帰った日、由起は電話の前で、早織にかける言葉を何度も練習した。
 できるだけ、明るく。この間のことなんか、全然気にしていないと思われるように。
 そもそも、何かあったっけ? という態度でもいいかも。あまり白々しいと、さおちゃんのことだからかえって気に病むかな。むずかしいんだよね、さおちゃん、見てくれは宝塚の男役そのもののかっこよさだけど、根っこがちっちゃな女の子なところあるから。
 そもそも、この間のことは自分が原因だ、と由起は反省した。
 下着の試着なんか見せつけたり、親がいないから泊まりに来いと言ったり。誘惑したのはこっちだ。
 早織の自分を見る目が、会うたびに熱くなることに気づいてから、由起は早織をからかうのをやめられなくなった。胸を強調して見せつけたり、いきなり早織の耳元でささやいたり、背中から抱きついてみたり。そのたびに早織が震えるのがたまらない。
 早織の視線が体を這うと、まるで本物の指の愛撫のように感じ、触れてもいないのに胸の先が固くなる。もしかしたら、早織にとっての自分はとんでもない悪女なのかもしれない。
 だから、さおちゃんは、はじけちゃったんだ。我慢できなくなって。
 早織をなぶって喜ぶ由起の余裕は、トイレで強引にキスされたとき、あっさりと失われた。
 力づくで抱きしめられたときの、咄嗟の反感は、早織の本気に気がつくと、怯えに変わった。
 舌を吸われたあとは自分の中に湧き上がった熱に身をゆだねかけていた。
 胸を掴まれ、声が出そうになって、誰かに聞かれたら、と思ったとき、自分たちのいる場所を思い出した。
 好きな子との初体験が、公衆トイレというのはあんまりだ、と思った。
 早織が自分に欲情するように、由起も早織の体を求めていた。自分を早織に差し出したい、と同時に、由起も早織を慈しみたい。そのための場所は、やっぱり大切にしたいかった。
 そういった自分の考えを、電話で伝えられるかどうか、由起には自信がなかった。言葉にできることではないような気がした。
 あの日は早織のことをまっすぐ見られそうもなくて、トイレに置いてひとりで帰ってきてしまったが、早織はひどく落ち込んだだろう。もしかしたら自分と話すこともできない、と思っているかもしれない。
 考えていてもらちが明かない、と思って由起は電話番号を押した。この時間ならまず電話に出ることのない早織の父や兄が出たらなんて言おう、と思っていたら、呼び出し音2回で早織が出た。
「さおちゃん、ただいま。今日合宿から帰ってきた。元気だった?」
 うん、明るく言えた。
『由起……』
 そのあと、言葉がない。あ、泣いてるな、と由起が思い、こちらから声をかけなきゃ、と言葉をつごうとしたら、
『うわああん』と派手な早織の泣き声が受話器からあふれた。
 わあん、わあん、という泣き声がしばらく止まらない。
 由起はそのまま何もいわずに受話器を耳に当て、早織の泣き声を聞いていた。
 いいよ、さおちゃん、いっぱい泣きな。泣くだけ泣いたら、すっきりするから。
 数分たって、しゃくりあげる声が弱まると、由起はそっと声をかけた。
「さおちゃん、落ち着いた?」
 返事はなかったが、電話口で早織がうなずいた気配がした。
「ごめんね、電話もしなくて。私が怒ってるって思ってたよね。怒ってないよ。ちょっとびっくりしただけ。由起の情熱はすごく伝わった。私、愛されてるんだよね」
『本当に、ごめんなさい』早織の涙声が震えた。『由起にひどいことして……』
「だから、怒ってないよ!もう謝らなくていいから」由起はわざと強い調子でたしなめた。
「泣いてばかりいるなら、電話かけ直す」
『……わかった。もう泣かない』
 涙声はそのままだったが、由起は気づかないふりをした。
 合宿のようすと秋の発表会について話したあと、早織の気持ちが静まったようだと思い、由起は肝心な話を切り出した。
「それで、来週のことなんだけど……。一週遅れの私の誕生日祝い、さおちゃん、うちに来てくれるの、予定どおりでいいかな?」
『あ、忘れてた……由起誕生日おめでとう』
「ありがとう。合宿でも一応お祝い言われたんだけどね。部員全員による、美しいハッピーバースデーのコーラス」
『すてきだね』
「お金かかってないけどね。でも、本番はさおちゃんとのバースデーパーティだから」
『由起、そのことだけど。来週、あたしさおちゃんのうちにお邪魔するのやめる』
「え、なんで?何か予定入ったの」
『そうじゃないけど、おばさんたちがいないさおちゃんの家には、泊まらない』
 早織のことばに由起は混乱した。
 それは、つまり、自分とふたりで過ごすことが、いやだ、ということ?
 早織が自分を求めていることにはまったく疑いを抱いていなかったから、まさか自分の誘いを拒まれるとは思いもしなかった。
「さおちゃん、それは私といっしょにいたくない、ってこと?私がさおちゃんのこと、拒否したから? あ、もしかしたら、私がいやがってると思ってるの?」
『由起、ちがう』
「ちがわないよ。さおちゃん、誤解してる」由起は早織の言葉を遮った。「言っとくけど、私、さおちゃんにキスされて、ものすごくうれしかったよ。頭おかしくなるかと思うくらい、興奮した。もっとしてほしかったけど、さおちゃんとはきちんとしたいの。人の目とか、時間とか気にしないで。だから、うちに来てよ。ね、ちゃんとやり直そ。私もさおちゃんのこと」
『由起!聞いて!』今度は早織が由起の言葉を止めた。『私、トイレで無理やり由起にキスしたあと、自分のしたこと考えた。あれはレイプだったって。男が女の人を無理やりセックスするのといっしょだって』
 早織の思いがけないことばに由起は息を飲んだ。レイプ?早織はそう言った?
『あたしは、自分の想いを遂げたくて、由起の気持ちなんか全然考えられなかった。あたしのやりたいことをすれば、由起も感じてくれる。そう思い込んでた。映画で見たように』
 ふたりで見た<エマニエル夫人>では、そんなシーンがあった。いやよ、いやよも好きのうち。
『由起がいやがることは、あたしにはできない。しちゃいけない。あのあとであたし自分に言い聞かせた。だから由起のうちに泊まるのもやめよう、そう思って、由起が合宿からもどったらすぐに連絡するつもりだった』
 レイプなんかじゃない。自分がいやがったのは、あの場所がトイレだったからで、さらにいえば心の準備もなかったから。
 だから、うちに来て。セックスしよう。
 そう告げたかったが、「私は、いやじゃないよ」と口にするのが精一杯だった。
『由起は優しいね、あたしに気をつかってくれてる』
「気づかいじゃない、私は本当に」
「ありがと。そういってくれるとあたしも言いやすい。あのね、由起、あたし、由起のことものすごく、好き。いつも抱きしめたくて、キスしたくて、もっといろんなことしたいと思ってる。でも、由起を大切にしなきゃ、ということにも気がついたんだ。由起がいやがることはしない、由起があたしを受け入れてくれる日が来るかわからないけど、その日を待とうって思った」
 少女の考えだ、と由起は思った。
 早織は本当に、まだ子供なのだ。だから肉体の訴えに心がついていかない。欲求の向かう先が同性となれば、彼女の幼さが混乱するのも無理はない。
 では、半年ばかり先に生まれた自分はどうなのか。由起の少女っぽい決めごとを、鼻で笑えるほど、成熟した女なのか。
 処女のくせに。
 由起は自分に毒づいた。早織と同じ(だと思うけど)、男も女も知らないくせに。
 由起は早織に従うことにした。
「わかったよ、さおちゃん。私を大事にしてくれるのね。うれしいな。ありがとう。でも、さおちゃんは、いつまで待っててくれるつもりなの?」
 自分はいつまで待たされるのか?
『考えたんだけど、十八歳までというのはどうかな?』
「十八? なんで?高校卒業するから?」
『それもあるけど、十八歳未満は大人のするようなこと、しちゃいけないのかな、って思って。お酒とかタバコとか』
「え。さおちゃん、ちょっと待って」由起は受話器を持ち替えた。「お酒とタバコは二十歳からだよ。十八歳未満禁止って、パチンコなんかそうだけど」
『映画』
「なに?」
『ほら、成人映画って十八歳未満お断り、って看板に書いてあるじゃない。だからそういうことは十八までしないほうがいいのかなって』
「さおちゃん、まじめに言ってるの?成人映画が十八歳未満お断りだから十八になるまでエッチなことしちゃいけない、そう思ってるわけ?」
『ちがう、かな』
 早織の声が小さくなる。
「そんなわけ、ないじゃん!」由起が思わず声を高くした。「結婚だって女は十六歳からできるんだよ。結婚したらふつうにセックスするでしょう」
『だって、高校生だし』
「セックスしてる高校生なんて、日本中に山ほどいるよ。むしろ、してない高校生のほうが少ないかもよ」知らないけれど。
『由起、その……クスって何度も言うのやめてよ』
「セックス?」
『電話で聞いてると恥ずかしい』
 見えない早織が受話器を抱えて赤くなっている姿が想像できて、いつもの悪い癖が頭をもたげてきた。早織をいじめたい。そう思ったら、体から力が抜けた。
「さおちゃん、わかった。約束しようね。来年、十八になるまで、私たちセックスはしない。これでいい?」
『由起、また』
「でも、私の誕生日は八月だけど、さおちゃんは早生まれの三月だよね。さおちゃんに合わせるの?」
『あたしは由起が十八になるまで、と思ってたんだけど』
「だって、その時はまださおちゃん十八歳未満でしょ」
『それはそうなんだけど……』
「じゃ、だめじゃない」
 またいじめてる。本当に悪い癖だ。
『わかった。お互い十八になるまで、エッチなことはしない』
 早織がきっぱり言った。
「約束だね」
『あたし、必ず守るから』
 来週は外で会って一週遅れの誕生日を祝ってもらうことにして、由起は電話を切った。早織と話せてほっとしたが、最後に交わした約束は予想外だった。
 来週にもと思っていた早織との『契り』が、あと一年以上お預けを食うなんて。早織は約束を守ると宣言したけれど、由起には自分が辛抱できるか自信がない。
 もしかしたら、今度は自分が由起を襲ったりして。
 過激なことを夢想して、由起は熱くなっている場所に手を伸ばす。
 当分、この生活が続くのね。
 早織、早織、早織……。由起はいつものように、熱い息でその名前を繰り返し称えた。
 
 
 予備校の自習室を出るとき、前川が声をかけてきた。
「平田さん、明日の午前中って時間空いてない? もう学校の授業はないよね」
 夏休みを目前にして、学校は期末テストが終わって学期の最終日まで三年生は自主学習期間になっている。予備校の授業も夏休み前は夕方からだから、確かに時間は空いている。
「空いてはいるけど」由起はぶっきらぼうに答えた。「自習室使おうかと思ってた」
 その言葉に前川がうれしそうに顔をほころばせた。主人にかまってもらっている犬のようだと由起はいつも思う。
 それにしても、前川が由起の通う女子高の時間割を把握していたことに、由起は薄気味悪さを通り越して感心した。
 由起が通うK塾で前川を見たとき、前川は奇遇だね、と悪びれずに言ったが、由起は自分の通う予備校を前川が調べて入学してきたと見立てていた。
 K市の駅前には現役高校生が通う予備校はK塾かYゼミのどちらかで、進学高であるK高、K女子高の生徒はK塾派が多いから、前川のいうようにふたりが同じ予備校に通っているのは偶然かもしれない。
 だが、5月に由起が入塾したとき、前川の姿は見かけなかった。それまで前川はYゼミに通っていた、と本人が言っていたのだ。
 なんで予備校を替えたのか聞いたら、国立受けるならK塾でしょ、と涼しい顔で答えた。
 それ以上は追及しても仕方がない。
 由起は自分の勉強に集中した。予備校で前川がべたべたとまといつくことはなかった。授業や自習室で顔を合わせるとうれしそうに手をふってくるくらいで、由起も会釈を返す。無視すればかえって意識している気がしたし、あいさつくらいならなんの実害もない。
 それが、明日の予定を聞いてきた。
 現役受験生にとっての天王山となる夏休みを前に、のんきにデートに誘うつもりだろうか。自分には勉強時間がいくらあっても足りないというのに。このところ、早織にも会う時間がないのに。
 由起の苛立ちに気づかないのか、それともわかっていてわざと知らんふりしているのか、前川は軽い調子で用件を切り出した。
「明日、うちの高校の野球部が県予選の準決勝なんだ。ベスト4に入るのは画期的でさ、もし勝って、次の決勝も勝てば甲子園に行けるんだ」
「へえ、すごいじゃない」
 由起はさきほどの苛立ちを忘れて、素直に感心した。
「すごいなんてもんじゃないよ。これまでほとんど一回戦か二回戦で消えてたんだから。もうみんなお祭り騒ぎでさ。それで明日、試合見に行かない?」
「どうしようかな」
 断ってもよかった。
 午前中から勉強にかかれば、それなりの問題を解くことができるだろう。でも、このところの受験一色の毎日、高三最後の夏休みもおそらくまとまった娯楽を楽しむ時間なんかとれない。ほんの少しの時間、息抜きをしても大勢に影響はないだろう。
 行ったことのない野球の試合、というのも、狙って遊びに行くことにくらべて罪悪感が少ない。
 由起が行ってもいいと言うと、前川は大げさにガッツポーズを作った。
 待ち合わせの場所と時間を決めて、意気揚々と歩き去る前川の後姿を見て、やっぱり断るべきだったかな、と由起は思った。あれ、絶対デートだと思ってるよ。
 早織にも電話しておかなくては。こんなことでやきもちやいたりはしないと思うけど、もし早織がいやがったら、そのときは前川くんに電話かけて断ろう。あ、前川くんの電話番号知らないや。
 そうなると、断るにしても待ち合わせ場所には行かなくてはならない。いくらなんでも何も言わずにすっぽかすことはできないだろう。
 その迷いが、早織への連絡をためらわせた。
 結局、早織に電話することができず、翌日、由起は野球場に出かけた。
 球場の入り口は想像以上に人が多く、前川の姿がなかなか見つけられなかった。これが早織との待ち合わせなら、どんな人ごみの中でもすぐに探せるのに。そう思うと、早織に黙ってここに来たことが後ろめたかった。
「平田さん、こっち」
 前川のほうから由起を見つけた。
 応援ということもあるのか、前川もそのほかのK高生もみな制服姿だった。デートっぽい恰好を避けようと、由起も制服だ。学校行事のような雰囲気で、由起は少し気持ちが軽くなった。これなら、デートということにはならないだろう。
 応援席に入っておどろいたのが、対戦相手のびっしり満員のスタンドだった。由起はくわしくないが、準決勝の相手は何度も甲子園の出場している私立の名門高だ。その大がかりな応援は、甲子園でも有名で、地方大会ではその演習も兼ねて相当に力を入れている。
 K高もふだんとはくらべものにならない数の学生やOBが来ているというが、人数でも華やかさでも見劣りがした。それでも男子校の応援席に女子のチアガールがいるのは、臨時の助っ人だろうか。
「女子の応援がいるね」
「平田さんの学校のチア部だよ。毎年来てくれている。今年は気合がちがうけどね」
「へえ、全然知らなかった」
 チアガールの中に、すらりとしたショートヘアの子がいて、一瞬早織に見えた。もちろん、そんなはずはないが、早織だったらチアの姿も似合うだろうな、と由起は思った。
 試合が始まり、意外というか、さすがにベスト4は伊達ではないというか、K高は強豪相手に互角に戦った。
「今年のエースピッチャーがすごいんだ。ひとり才能があるやつがいると、けっこう勝ち進める」前川が解説した。「しかも頭もいい。たぶん、東大行って、そこでも野球やるんじゃないか、っていわれてる」
「東大にも野球部あるの」
「六大学に入ってるから」
 そういう世界のことは何も知らない。由起には、野球もうまくて東大にも行ける男子の存在が実感できなかった。
 野球のルールはよくわからなかったが、ピッチャーの投げるボールのスピードと、ときどきバットがはじき返す球の飛距離、グラウンドをくるくると動き回る選手たちの軽やかな動きは由起の心を湧きたたせた。気が付けば、周囲の観客といっしょになってK高野球部に歓声を送っていた。
 両チームゼロ行進が続いていたが後半に入り、K高にピンチが訪れた。
 これまで地方大会の全試合をひとりで投げてきたピッチャーはさすがに疲労もあったか、制球が乱れ、連続で四球を出し、満塁の走者を背負った。そこで相手チームはピンチヒッターを起用、その選手が意表をつくセーフティー・スクイズでK高の不慣れな守備陣をかき乱し、あっという間に走者全員がホームを踏んだ。これで気落ちもあったか、次の打者にホームランを浴び、その後もつるべ打ちに会って、この回で一気に7点を失った。
 ようやくスリーアウトを取って守備陣がベンチに戻ってきたとき、応援席から声援がとんだが、意気消沈とした空気がベンチが覆っていた。
 ここまでの試合の展開をすべて理解してはいなかったが、K高の敗色が濃くなったことは由起も感じた。これまでいっしょに応援していたから、自分の中にもくやしさ、選手を気の毒に思う気持ちが高まっていた。何かしてあげたいが、自分にできることは何もない……。
「K高、校歌斉唱!」
 突然、隣に座っていた前川が立ち上がった。そして大きく息を吐くと、合唱で鍛えたテノールで朗々と校歌を歌い始めた。
 由起があっけにとられていると、応援席の最前列にいた応援団が、エールを上げはじめ、音程を無視した怒鳴るだけの校歌を歌いだした。応援席のあちこちで生徒が立ち上がり、やがてほぼ全員が起立してK高校歌を歌いだした。見るとグラウンドの野球部員も胸を張って歌っている。
 助っ人で来たK女子高のチアガールは、さすがに歌詞までおぼえていないのか、それでも肩を組んで合唱に合わせて体を左右にゆすっていた。
 由起も立ち上がった。やっぱり歌詞はわからないが、旋律はすぐに掴めたので、スキャットで声を合わせた。混声合唱はやったことがあったが、野太い男子高校生の雑多な調子の歌声に合わせて歌うのは初めてだった。
 ちらりと横を見ると、前川は目を閉じて声をひびかせていた。豊かなテノールは、どこまでも存在感を発揮していた。
 試合は終盤で相手にさらに追加点が入り、コールドゲームとなった。終わってみれば実力差どおりの結果だった。
「残念だったね。途中までいい勝負だったのに」
 由起が慰めの声をかけた。
「まあ、ここまで来られたのが奇跡だった。組み合わせにも恵まれていたし。もうひとつの準決勝は、春の甲子園出たところと、去年の夏の代表だからね。どこと当たっていてもたぶん歯が立たなかった」
 野球場を出て、ふたりは予備校までの道を歩いていた。夏の日差しがじりじりと照り付け、応援席でも日にさらされていた由起はどこかで休みたかった。
「ねえ、ちょっと喫茶店寄っていかない?お昼もまだだし」
「え、ほんと? 行こう行こう、おれも喉乾いたし暑いし、平田さんもくたびれただろうし。どうせ予備校の授業、夕方だもんね。うん、そうしよう」
「駅の反対側だけど、知ってるところがあるから」
 ビルの2階に上がり、『タイタン』の扉を開けると、冷気がさっと身を包み、一瞬鳥肌が立つ。
「いらっしゃいませ」
 店の奥から耳になじんだ声が聞こえた。
 早織が由起を見て、ぱっと顔を輝かせた。由起もにっこり笑う。
「こんにちは、暑いね」
 由起はいつも座る窓側の席に向かった。あとから前川がついてきて、由起の向かい側に座ると物珍しそうに店内を見回した。
「いいところでしょ。私がいうのも変だけど」
 由起が早織を紹介しようと顔を上げると、早織がこちらを呆然と口を開けて見ていた。声をかけようとした由起が息の飲むほどの強張った顔だった。
 思いがけない早織の反応にどうしたらいいかわからず、由起はテーブルの上のメニューを手に取った。
「何か食べようかな。おなかすいたよね」前川がのんきに自分の手元のメニューをながめている。「オムライスかな。スパゲティもいいけど」
「いらっしゃいませ」早織が水を運んできた。「由起、久しぶり。元気だった?」
「さおちゃん」
 由起が顔を上げた。早織は微笑んで由起を見つめている。
 よかった、いつものさおちゃんだ。いきなり男の子連れてきたから、びっくりさせたかもしれない。紹介しないと。
 由起は前川を指さした。
「この人、例の前川くん。今日、野球の試合見てきたの」
 早織をぼうっと見ていた前川が由起に目を向けた。
「例のって、おれのこと?」
「なんでもない。あのね、前川くん、この子が」
「ご注文決まったら呼んでください」
 由起を遮るように早織がテーブルから離れた。由起は言葉を飲み込んで、早織の後姿を見やった。
「ねえ、平田さん、あの子すごい美人だね」前川が感じ入った、というように呟き、それからあわてて「いや、平田さんにはかなわないけど」と付け足した。
 由起が真顔で前川をにらむと、「と、自分は思うよ」と小さな声で続けた。
 彼女が私のつきあっている人。そうはっきり伝えるかどうか決めていなかったが、自分たちの会話を聞けば、察しをつけるだろう、と由起は思っていた。
 いっしょに野球の応援をして、少し距離が縮まったところで早織を紹介すれば、自分たちの関係を見る構えもいくぶんやわらぐのではないか。
 由起にとって前川は、何をどう思われてもいい赤の他人ではすでになくなっていた。友だちには、できるなら、自分と早織の付き合いを肯定的に見てほしかった。
 早織は戻って来ず、注文を取りに来たのは別のウエイトレスだった。由起は飲み物だけ、前川はナポリタンを頼むと由起は席を立った。
「お手洗い行ってくる」
 トイレは厨房の横にある。扉を開けるとき、由起は厨房をのぞいた。
 早織が泣いていた。こぶしを両目に当て、声を押し殺して、由起のいる所からはっきりとわかるほどの大粒の涙を流して肩を震わせていた。
 声をかけようとして、由起は動けなくなった。その時になってはじめて、自分が何をしてしまったのかに気づいた。
 前川を連れてくるべきではなかった。せめて昨日電話をかけて、今日、前川と野球の応援に行くことを伝えておけばよかった。さらにいえば、前川の申し出を受けなければ、今日ここに来たとしてもひとりだっただろうし、いつものように笑って、いつものように幸福感に包まれて店を出ただろう。
 由起はトイレに入り、水を流して出てきた。
 厨房をのぞいたが早織の姿はなかった。店のどこにもいない。テーブルにもどり、出てきたオレンジジュースを飲み、ナポリタンをぱくつく前川のどうでもいい話に適当にあいづちを打って、うそ笑いまでした。
 早織の泣き顔を見たショックを、そのときまで気づかなかった自分のうかつさを、前川に悟らせるわけにはいかない。
 自分も大声で泣きわめきながら早織を探して、許しを乞いたかったが、由起は内面の嵐を鋼の皮で覆い隠した。涙は、死ぬ気になればがまんできるということを由起は初めて知った。


<早織>の三



 説明会のあと、看護学校の中を案内してくれた学生は、昨年まで高校生だったとはとても思えないほど大人びていた。看護婦と同じ白衣を来ているせいもあるが、もうほとんど一人前の看護婦にしか見えない。
 自分もすぐにこんなふうになれるのだろうか、と早織は自分の志望の気力がなえるのを感じたが、すぐにその弱気を振り払い、説明会で配布された資料の入った封筒を握りしめた。
 予約していた看護学校の説明会に行かれるかどうか、今朝まで自分でもわからなかった。先週、『タイタン』で由起と前川の姿を見たときの衝撃からまだ立ち直っていなかった。
 落ち着いて考えれば、由起が店に前川を連れてきたことそのものが、由起に悪気がなかった証だし、ましてや自分を裏切ってボーイフレンドを作り、それを見せびらかしに来たなんてことはあるはずがない。そこまで自分が憎まれているのなら、そもそもふたりの関係はとっくにこわれていた。
 でも、由起のいつもの素敵な笑顔のうしろに、男の姿が見えた瞬間、そのありえないはずの想像が瞬時に早織の心をいっぱいにした。
 由起はいつもどおりだったから、声をきいてどす黒い感情はいくぶん収まったが、すぐそのあとに、ああ、由起はこうして男の子とつきあうこともできるんだ、と思ったら、絶望の未来が思い浮かび、早織は一気に打ちのめされた。
 だいじょうぶ、由起は私を裏切ったりしない、と言い聞かせれば言い聞かせるほど、由起がいずれ自分から離れて男を愛するようになる姿が浮かび、涙が止まらなくなった。
 由起の席の注文をとることもできないまま、見かねたマスターが少し外に行って来たら、と言ってくれた。
 店を出ても気持ちは落ち着かず、夕方になって『タイタン』に戻ると、とっくにいなくなっていた由起の「夜に電話する」という伝言が残っていた。マスターは何も言わなかったが、早織が店を出ていったのは、由起たちが原因だと思ったにちがいなかった。
 夜かかってきた電話に早織は出なかった。何度か留守番電話に由起の声がふきこまれた。早織はそれを何回も再生したが、こちらから折り返しかけることはしなかった。
 自分の心のもろさに早織は愕然とした。
 由起に会って話をして、はっきりと誤解をとけばいい。前川とはなんでもない、何かのついでにいっしょに店に立ち寄っただけだと笑ってほしい。そう思う反面、最悪の予想(実はつきあい始めた)とか、将来の絶望(いずれ誰か男を愛する)がちらりとでも脳裏をかすめると、由起に会う勇気が消えていく。
 バレー部の先輩から、お前はレズなのか、といわれた時でさえ、口惜しかったが心は折れなかった。由起への想いは由起の体への執着も含めて完璧なもので、もはやゆるぐことはないと思っていたのに、ちょっとしたすれちがいと、おそらく取るに足らない勘違いのために崩れかけている。
 由起といっしょにいた男子高校生はただつきまとってるだけの存在、あるいはもしかしたら友だちのひとりなのかもしれない。
 でも由起が大学に行けばもっと素敵な(と由起が思う)男が、それこそ入れ替わり立ち代わり由起の周りに現れる。由起と自分は住む世界が違うのだ。
 自分は、たぶん、本当に女の人しか愛せない。由起はきっとそうではない。はっきりとした根拠はないが、由起は男の人ともきちんとした恋愛ができると早織には思えた。
 自分が由起に惹かれるのは、由起が男にも愛される女だからではないか。自分の由起に向ける感情は、男が女に向ける感情といっしょ。
 だとしたら、自分は女であるということで、すでに男たちに負けているのだ。
 由起を本気になって男たちが狙ってきたら、自分が太刀打ちできるはずがない。自分は、女だから。そう考える自分の卑屈さが早織は哀しかった。
 こんなことなら、強引に由起の体を求めてしまえばよかった。まだ自分へ由起の関心が向いていた間に。ばかな約束なんか放り投げて。
 それとも、由起はこうなることも予想して、自分との交愛を先に延ばすことに同意したのか。もしかしたら、女を相手にする前に、「ちゃんと」男と体験する可能性を考えて。
 そんなはずない、と早織は下世話な想像を振り払う。由起は、確かに自分の気持ちを受け止めてくれた。そう思いたかった。
 由起たちに会うのが怖くて、早織は『タイタン』のバイトを辞めた。
 夏休みに入り、家事の時間以外を看護学校の受験準備に当てることにした。試験科目には数学もあって、今から準備して間に合うかわからなかったが、以前由起といっしょに勉強したときのやり方を思い出しながら、ぽつぽつと問題集を解いていった。
 わからない問題があると、つい由起にききたくなり、そのたびに胸がはりさけそうになる。
 まだ由起と決定的に破局したとは思っていなかったが、最近は電話もかかってこず、こちらからかける勇気はなく、夢想するのは由起がいきなり訪ねてくれることだがそういうこともなく、早織は少しずつ現状を受け入れていった。
 大人なら、いくつかの恋や愛を経験していれば、傷つくことを覚悟のうえで、会いにいって感情をぶつける知恵もあるが、早織はまだ十七歳の少女だった。子供は自分の子供っぽさに気づけない。
 それでも、子供たちは必死に子供の殻を破ろうとあがく。早織は意識していないが、由起を失うのかもしれないという不安が、自立への欲求を後押ししていた。目をそらすため、あるいは、乗り越えるため。
 だから、自分の進路については、逃げていられない。
 早織の通う高校は、大学に進学する割合が三割で、残りは就職か、専門学校に進む。
 大学で勉強をする自分の姿が思いつかず、早織は漠然と就職か専門学校へ行くことを考えていた。
 学校に置かれていた専門学校のパンフレットをぱらぱら見ていて、中に看護学校のものを見つけたとき、母を亡くしたときのことを思い出した。
 病院で、お世話をしてくれた看護婦の姿が浮かび、小学生のときに抱いた憧れが、現実の選択肢となった。
 その話を伝えた時、由起は自分が看護婦になるかのように興奮して、賛成してくれた。そうだ、それは春のことだった。由起と会えなくなる前の、夢のような日々の出来事が、早織にはとても遠い昔のことに思えた。
「何かわからないことある?」
 看護学校内の案内がひととおり終わり、玄関にもどってきたところで先輩の看護学生がきいた。
 いっしょに見学していた女子高生のひとりが手を上げた。
「先輩は、志望動機に何を書きましたか? 学校の先生が、ここが面接で大事だぞ、っていってたんですけど」
 早織の学校でも教師は同じことを言っていた。看護婦になって患者さんの手助けをしたい、という動機では一〇〇%だめだ、とも。
 母が亡くなったときに世話をしてくれた看護婦さんへの感謝と憧れを書こうと早織は思っていたが、そんなことでは通用しないのか。
「ナース姿に憧れて、と書いたかな」
 学生が早織の考えを見透かしたかのように、笑いながら質問に答えた。
「でも、さすがにそれだけじゃ小学生の将来の夢と同じレベルだとは思ったから、女性が自立して責任を持って仕事をまかされる職業だから、と書き加えたわ。今の世の中、働いている女は増えているけど、男の人から独立してできる仕事ってまだまだ限られているじゃない。美容師とか、スチュワーデスとか。看護婦は何といっても女の専門職だから。実は男の人も少しずつ増えているらしいけど、まだ圧倒的に女の職場でしょ。もちろん、責任も重いんだけど。わたしもまだ学生だから、えらそうなこと言えないけど、女ひとりでも生きていける職業だとは思う」
「ええ、結婚とかできないんですか」
 別の子が冗談めかしてきいた。
「結婚はするわよ。当たり前でしょ。結婚しても続けている人はたくさんいる。子供産んで、少したってから復帰してくる人も多い。ほら、怖そうな婦長さんっているでしょ」
 みんなといっしょに笑ったが、早織は学生の言葉を胸に刻み付けた。将来、ひとりで生きていくため。描いていた夢が、さらにはっきりとした目標に変わった。
 自分は女の人が好きなんですけど、看護婦になれますか、なんてことはさすがにきけないな。
 看護学校を出たとき、早織は自分の心の中で冗談をいえるくらいには気持ちが立ち直っていた。
 ふうつに男を好きな人だって、看護婦さんは男の患者も見るわけだし。いちいち意識したら勤まらないか。男を好きな看護婦さんがいるなら、女が好きな看護婦がいたって問題ないはず。要は、プロ意識をきちんと持つことだ。
 早織は自分に言い聞かせて、母親の病気のとき付き添ってくれた看護婦のことを思い返した。
 若くて、きれいな看護婦さんだった。母の死を嘆き悲しむ小学生の自分をその看護婦が抱きしめてくれたとき、安心感と、さらに別の甘酸っぱい興奮を感じた。その時は何が自分に起きたのか、考えることもできなかった。たぶんあれが自分の初恋だったんだろう、と今の早織は思う。


 試験のことを考えていたら神社にお参りすることを思い立ち、早織は駅前を抜けて神社に向かった。
 夏休みではあるけれど平日の昼まで、境内はがらんとしていた。セミの声がひびく。
 早織は思い出す。中学の時、ここで夜店の番をしていたら、店の前で由起が倒れた。救急車で運ばれて、入院した由起は声が出せなくなり、早織がこの神社のお守りを届けた。中学の卒業式のあと、由起に告白して、つきあい始めて、この神社にふたりでお参りに来た。
 恋愛成就をお願いした、と由起は言った。
 てっきり自分とのことだと思っていたが、由起はふたりがそれぞれの恋愛をうまく実らせることをいっていたのかもしれない。あのあと、何度も自分を好きだと言ってはくれたけど。それは、本当の恋人をつくるまでの、ままごとのようなものだったのではないか。
 そんなことを考えてまた気持ちが暗くなり、それでも神殿に向かって、お賽銭を入れてから、看護学校の合格をお祈りした。
 願いがいくつも叶うという万能のお守りはすでに持っているが、せっかく来たから合格祈願のためにもうひとつ買っていこうか迷っていると、
「あれ、帆波じゃん」と声をかけられた。
 落合万里子がガムを噛みながら笑っていた。
「何やってんの……って、見りゃわかるか。神社にお参りだよね。何言ってんだあたしったら」
「落合さんもお参り?今日は彼氏は?」
「あたしはちょっと涼みに来ただけ。星野とはここんとこ会ってない」
 彼氏の名前を口にしたとき、万里子が笑みを消した。早織は話題を変えた。
「専門学校の説明会に行ってきたんだ」手にしていたパンフレットの入った封筒を見せる。「駅の向こうの看護学校」
「へえ、帆波、看護婦になるのか。いいじゃん、ナースの格好、似合いそう」
 由起も同じことを言った、と早織は思い出した。看護婦になりたいと言ったら、「さおちゃんのナース姿、想像したら私の理性飛んじゃう」と由起は笑った。
 とたんに忘れようとしていた感情が早織の胸の中で膨れ上がった。
 急に涙をこぼした早織を見て、当然万里子は狼狽した。
「どうしたの? あたしまずいこと言った?」
「ごめんね」
 早織はティッシュを出し、わざと大きな音を立てて鼻をかんだ。自分はこの子の前でいつも泣いている。
「ちょっと、座ろ」万里子に腕を引かれて、日陰の石段に早織は腰を下ろした。
「本当にごめん。なんか急に変なこと思い出して、涙止まらなくなって。びっくりしたよね。あたしも自分で驚いた」
「なんか、いやなことでもあった?」
「別に……」
「つきあってる彼女と、喧嘩したとか?」
 早織が目を見開いた。
「……どうして、そう思うの?」
「いや、実はあたしがさ、今、彼と大喧嘩中で、ちょっと落ち込んでるからさ。もしかして帆波もそうかな、って勝手に想像して」
「落合さんたちも喧嘩するんだ。『タイタン』で、すごく仲良さそうに見えたけど」
「まあねえ、わりとちょくちょくぶつかるよ。今回はちょっと重いかも、だけど。まあ、あたしたちのことはいいや。そういえば、帆波、バイト辞めちゃったんだって? お店に行ったら帆波の姿見えないんで、店の人にきいたらそう言ってた」
「うん。家の用もあるし、看護学校も試験あるから、その準備もしなきゃならないし」
「そうかあ。あの店、帆波目当ての客がけっこういたみたいだから、みんながっかりしてるよ」
「あたしなんか、別にそれほどのものじゃないよ」
「それ。そういうの、よくないよ、帆波。あたしなんか、ってすぐ言う。あんた、自分がどれほどの美人か自覚あんの?あんたみたいな美少女が、あたしなんか、っていうの、けんそん通り越して嫌味だからね」
 早織には自分を卑下している意識があまりなかった。由起さえ自分を見てくれていれば、ほかの人からの好意には関心がない、と思っていた。自分の態度にどこか卑屈に見えるものがあるとしたら、それは女を好きだという性向を恥じているからだろうか、と早織は思った。
「わかった……これから、気をつける」
「まあ、あたしは美人でございます、みんなひれ伏しなさーいって宣言されても腹立つけど」
「そんなこと言わないよ」
「あはは。そうだ、帆波これからひま? あたしとデートしない?」
「デート?」
「いや、その変な意味じゃなくて。ちょっとつきあってよ。あたしもひとりで退屈してたからさ。それとも、あたしなんかといっしょにいると、その、帆波の彼女にまずいかな?」
 そういえば、このところ由起以外の女のともだちと遊びに行ったことがない。バレー部の友だちとはすっかり疎遠になり、学校で親しくしている子はあまりいなかった。早織にとって、友だちであれ恋人であれ、唯一の彼女が由起だった。
 でも、その由起とはずっと会えていない。
「別に気にしないと思う。その子も大学受験で大変だから」
「彼女は大学行くんだ。頭いいんだ」
「落合さんの星野くん、K高だよね。あたしの彼女、K女子なんだ」
「お、自慢か」
「うん。それにすごいかわいい」
「はは。そうか。でも今日は帆波の可愛さを炸裂させよう。あたしといっしょに歩いて、どれだけ男が声かけるか試してみよ」
 駅前から1キロほど続く、通称カルガモ通りには、飲食店やゲームセンター、若い人向けの衣料品店がずらりとならび、昼間は歩行者専用になっていて、多くの人が行き交う。夏休みの今は、ただ端から端まで歩きながら、店をのぞいたり、男は女に声をかけたりして時間をつぶす学生が多い。
 その道をぶらぶらとしゃべりながら歩いていると、半時の間に五回、早織たちは男に声をかけられた。ふだん、道を歩いていて声をかけてくる男がいても、さっさと無視して行き過ぎてきた早織にとって、適当に相手をして、さらりとさよならをいう万里子のあしらい方は新鮮だった。
「やっぱり帆波はすごいわ」六組めの声がけしてきた男二人連れをやり過ごして、万里子が感極まった、というように言った。「あたしなんか、一日一回でも声かかればいいほうだよ」
「あたしだって、今日みたいなことなかったよ。落合さん、断然なれてるじゃん。あたし、どうしたらいいかわからなかった」
 早織は、自分よりも万里子に男が目をつけてきたと思っていた。何しろ、タンクトップで小麦色の肩を出し、ミニスカートから伸びている脚も健康的に焼けていて、今日は化粧も濃いめ。とても高校生には見えない。友だちがいを発揮してくれる万里子には言えないが、自分から見ても万里子は魅力的だった。
「帆波、近寄りがたいからさ。あたしといて、みんな気安くなったんじゃない? 美女のほうは無理でも、こっちの軽そうな女ならものにできそう、あわよくば美女のほうも、なんて」万里子が笑いながら腕をからめてきた。「あたしもこんな美女連れて歩けるの、楽しいもん」
 腕がタンクトップの上から万里子の胸に当たり、早織はどきっとして腕を引いた。
 ほら、自分は由起以外の女の子にも気を引かれる。やっぱりだめ人間だ。高揚していた気持ちがすっと冷めてきた。
「あたし、そろそろ帰らないと」
「何言ってんの!」万里子がもういちど早織の腕をつかんだ。「まだちょっとしか時間たってない。もっと遊ぼうよ。それとも、あたしといっしょじゃつまらない?」
「そんなことないけど……」
「ごめん、ナンパ目当てで歩かせてばかりじゃ、気分も悪いよね。よし、帆波、ボウリング行こう」
「え? ボウリング? あたし、やったことないよ」
「全然平気。教えるからさ。ボウリング場、クーラー効いてるし。こんな日差しの下にいたら黒こげになっちゃうよ」
 断るきっかけを見失い、早織は万里子とボウリング場に入った。
 お金がかかると思ったが、アルバイトの給金が貯まっていたし、高校生料金はそれほど高くなかった。
 靴を借り、ボウリングの球を選んで、見よう見まねで投げてみる。
 最初はまともにピンまで届かず、脇の溝に球を落としてばかりだったが、横で投げている人のフォームを見て、少し投げ方のコツのようなものをつかんだのか、普通にピンを倒せるようになった。
「すごいじゃん、帆波、本当に初めて?」
 一ゲーム終わると、早織と万里子のスコアはほとんど同じだった。
「やっぱり運動やってた子はちがうね。投げ方もさまになってるもん」
「でも、指痛いよ。球が重いから、腕もだるい」
「よし、もう一ゲームやろう」
 万里子が機械をリセットした。
 二ゲームめの途中で、早織は初めてストライクを出した。パーンというガラスの割れるような音とともにピンが散らばり、最後にふらふらと揺れていたピンが倒れると、万里子が歓声を上げた。早織はレーンの端に立ち止まってストライクのマークが点滅するのを見ていた。
 うん、これ気持ちいい。
 笑って手を上げている万里子に自分の手を合わせた。そのとき、隣のレーンから拍手が聞こえてきた。
「やるねえ、君たち」
 大学生らしい男がふたり、大げさなくらい手を叩いている。ひとりは髪を長く伸ばし、もうひとりはパーマをかけているのか、くしゃくしゃの頭をしていた。
 早織は笑みを浮かべながら、芝居がかったお辞儀をした。
 男たちは、その後も早織と万里子がスペアやストライクを取るたびに、「ナイス!」と声をかけてきた。そういわれればこちらからもお返しをしなくてはならない。そう思って、早織は男たちのプレーを見ていた。
 彼らのボウリングは、力任せで、勢いでストライクもとるが、残ったピンを狙うことは苦手のようだった。
「あんなに力入れてたら、思うところに球が行かないよ」
 万里子がくすくすと笑った。
 ボールのプールが共通なので、男たちが使っている球を試しに持ち上げてみたら、確かに重い。早織ではこの重さは扱えない。それを力いっぱい腕を振り上げて投げるのだ。男らしいといえばそうだが、ゲームを競うには向かない。得点を覗くと、自分たちと大差ないのが早織にはおかしかった。
「ねえ、おれたちと対戦しない?」
 早織のやや軽んじた視線を見とがめたかのように、髪の長いほうの男が持ちかけた。
「無理だよ。この子、今日がボウリング初体験だよ」
「ハンデ上げるからさ。一ゲームだけやろうよ」万里子のきわどい言葉はさらっとかわされた。「君らが勝ったらゲーム代おごるよ」
「あたしたちが負けたら」
「晩飯つきあってよ。もちろん、おごる。そっちに損はないでしょ」
 男たちの出した条件が巧みだったので、万里子が乗った。
 早織にノーをいえる雰囲気ではなかった。ハンデがつくなら、負けることもないか、と早織は軽く考えていた。
 対戦がはじまると、男たちは俄然、ていねいなボウリングをした。力任せの投球は姿をひそめ、残ったピンに正確に球を運ぶ。途中から点差が開き始めて、万里子も早織も落ち着きを失い、取れるはずのピンにも球がかすらない状態になった。
 終わってみれば、ハンデがあっても早織たちのボロ負けだった。
「汚いなあ。自分たちの力隠してたんでしょ。卑怯だよ」
 負けていながら万里子が噛みついた。
「別に隠してたわけじゃないよ。パワーボウリングを試していただけ。君らが隣に来たのはおれらの後でしょ。君らに見せようと思ってボウリングしてないから」
「それはそうかもしれないけど、なんか釈然としない」
「なんだよ。いいさ、別に。いやなら、晩飯パスしてくれてかまわない。無理にとはいわないよ」
 男たちはあっさりと引き下がろうとした。
「ちょっと待ってよ。こっちもいったん約束したから」約束は破りたくない、というプライドが万里子にはあるようだった。「帆波、どうする?」
 あたしは止めておく、と言おうと思ったとき、早織は由起と前川の姿を思い出した。
 あのふたりもいっしょにごはんを食べていた(由起が飲み物しか頼んでいないことを、早織は知らない)。あたしだって、男の人とごはんくらい食べられる。もしかしたら、あたしだって男とつきあえるかもしれない。
 早織が、自分は行ってもいい、というと、万里子は男たちに向き直った。
「あたしの知ってるお店でもいいかな? そんなに高くないところ。あんたたちを怪しむわけじゃないけど、知らないお店に連れていかれるのは気が進まないから」
「ひでえなあ。どこまでも疑われるわけね。でも、いいよ、それで。おれら、君たちとごはん食べられればそれでいいんで」
 男たちは軽く笑い、最後の対戦ゲームの分だけは早織たちのボウリング代も支払った。そのスマートさに早織は軽く驚いた。これが男の流儀なのか? 大学生になればみんなこんなことができるのか? それとも、この男たちが特別なのか? 
 早織の知っている男たち、たとえば同じ大学生の兄が、この男たちと同じ振る舞いをしているのは想像がつかない。それとも、外では兄も女の子相手にこんな手管を使っているのだろうか。
 そして、あの前川というK高生も。早織の思考はどうしてもそこに立ち戻ってしまう。前川があれこれと由起のご機嫌をとっている場面は想像するだけで不愉快だった。
 万里子の指定したステーキレストランは、ステーキこそ、そこそこの値段がするが、それ以外にエビドリアやスパゲティ、ハンバーグなどが学生でも気軽に食べられる店だった。万里子は星野といっしょに何回か来たことがあるという。
 星野と店で出くわすことは考えないのか、と早織は思ったが口には出さなかった。わざわざこの店を選んだということは、万里子なりに何かの覚悟があるのだろう。
 男ふたりはやはり大学生で、佐藤と田中、と名乗った。早織はすぐにどちらがどちらの名前かわからなくなってしまい、名前で呼びかけることをあきらめた。早織たちは名前は明かしたが、学校名は言わずにいた。
 会話はもっぱら男たちが質問して万里子と早織が答える形になった。
 男たちは自分語りをするタイプではなく、万里子も早織も男たちにききたいことがなかった。
 夏休みは何してるの。アルバイトはやってるの。彼氏はいるの。
 どうでもいい質問に、主に万里子が適当な受け答えをしていたが、彼氏が云々となったときに、万里子が「あたしは彼氏持ちだけど、この子はフリーだよ」といって早織に片目をつぶった。それから、だいじょうぶ、と口を動かした。
 彼女持ちとも言わないから、だいじょうぶ。早織はそう受け止めた。
「え、うそ。早織ちゃん、すごいもてそうじゃん」「信じられない」
 佐藤と田中がにわかに色めき立った。
「そうだよ。めちゃめちゃもてるから。そんじょそこらの男じゃ相手なんないよ」
 万里子が自分の手柄のようにほめそやす。
「今日だって、何回もスカウトに声かけられたもの」
 それはちがう、と言おうとして早織は口ごもった。声かけられたことは確かで、それを自分で言ったらあからさまに自慢になる。
「わかる。モデルになれるよ、早織ちゃん」
 三人からかわるがわるおだてられ、早織は顔が熱くなってきた。
 由起以外から面と向かって褒められることに慣れていないので、どう対応していいかわからない。万里子も含めて、自分を会話のおもちゃにしているのはわかるけれど。
 どうしようもなくて、早織は目の前のドリアを口に運んだ。ドリアは熱かった。すぐに横にあったオレンジジュースをストローで思い切り吸い込んだ。
「あ、それ」万里子が慌てた。「お酒入ってるよ」
 佐藤だか田中だかが頼んだスクリュードライバー。女の子に飲ませるにはいちばん、というカクテルだ。
「……おいしい」
 ヒュー、と佐藤だか田中だかが口笛を吹き、万里子が「水飲んで、水」とコップを寄越した。それに口をつける代わりに、早織はもう一度カクテルの中身を吸った。
 しばらくして、胸の中がかっと熱くなった。顔が赤くなるのが早織は自分でもわかった。
「ちょっと帆波、だいじょうぶ?あんた、お酒飲んだことあるの?」
「お酒初めて……」
「もう、しょうがないな。あんたたちも、いい加減にしてよ。高校生にお酒ってどういうつもり?」
 万里子が佐藤と田中を睨んだ。
「おれらが無理やり飲ませたわけじゃないだろ。言いがかりはよせよ」
「飲ませるつもりがないなら、なんでカクテルなんか頼むのよ」
「自分で飲むつもりだったんだよ」
「え、なに、男のくせに、この甘ったるいやつ好きなの? 信じられない」
「いいじゃないか、男がカクテル飲んだって。だいたい、なんでこれの味知ってんだ?飲んだことあんの?」
「あるよ。甘すぎて気持ち悪くなった。どうせカクテル飲むなら、マティーニとか、ジンライムとか飲むよ」
「おいおい、女子高生の言葉とは思えないぞ」「十八歳未満は禁止だぞ」
「ばか。お酒は二十歳になってから、でしょ」
「十八歳未満禁止!」早織が突然声を上げた。「十八になるまで、待たなきゃ」
「何、早織、ちょっと!どれだけ飲んだの?」
 早織の持っているグラスの中身はほとんど空になっていた。
「このオレンジジュース、おいしい」
「だから、それはお酒だって!」万里子が空のグラスを引ったくり、水の入ったグラスを握らせた。「水飲んだほうがいいよ」
 水の入ったグラスに口をつけるときに手がゆれ、水がこぼれた。シャツの胸元が濡れ、万里子がおしぼりを当てると、早織の首がかく、と落ちた。
「やべ、寝ちゃったよ」
 佐藤だか田中だかがうろたえた声を上げた。
「寝てないよ」早織が顔を上げた。「少し、くらっとしただけ」姿勢を起こし、早織は今度はしっかりと水を飲んだ。「十八歳未満は、しっかりしないと」
「帆波、あんた酔ってるでしょ」万里子が心配そうに早織の顔をのぞきこんだ。「しょうがないな。もう帰ろう」
 ええ、と佐藤と田中が不満の声を出したが、万里子が一喝した。
「未成年にお酒飲ませて、あんたたちただじゃ済まないよ。大学に言うよ」
 おれたちが飲ませたんじゃない、とまだ不平をいう男たちを無視して、万里子が早織を立たせた。男たちも席を立つ。
 早織が歩こうとして、ふらついた。
「危ない」
 パーマでくしゃくしゃのほうの男が早織を支えようと、肩を掴んだ。
「触るな!」
 早織が叫んだ。店内が静まった。
「……お客様」店の従業員が近寄ってきた。「どうかなさいましたか」
 触るなといわれた男は、早織の肩から手を離した姿勢のまま固まっていた。髪の長いほうの男も呆然として、早織と万里子に視線を泳がせている。
「ごめんなさい」
 万里子が頭を下げて、早織の肩を抱いた。今度は何もいわず、早織は歩き出した。ふたりで店を出た。男たちはついてこなかった。
 カルガモ通りをゆっくりと歩きながら、万里子は早織の背中をさすっていた。早織はまだまっすぐに歩けていない。
「気持ち悪い……」
「え、だいじょうぶ?吐きそう?こっち行こう」
 万里子が道の端に早織を促した。電柱のよこに早織がしゃがみこんだ。
「気持ち悪い……。男も、あたしも」
「なに?」
 万里子も横にしゃがみこむ。
 早織が万里子に抱きついて、子供のように声を上げて泣いた。万里子は黙って早織の髪を撫でた。


<由起>の四



 模擬試験に手ごたえを感じられたのは初めてだった。
 これまでは試験を受けても、解けたかどうかわからないままなんとなく答案を出し、採点された結果もこんなものかと受け入れ、深い考えもなく記入した志望校の合格可能性を見て、意外と難しいとか、案外行けそうだとか思うだけで、進路を真剣に再検討しようともしなかった。
 周りの子たちと同じ、行けそうな大学に行く。母が、大学の費用は別れた父親からふんだくってくるから行きたいところを受けろ、と言ってくれたが、できれば学費は少なくてすむ国立に進みたい。でも、どうしても行きたい大学があるわけではなかった。
 今はちがう。目標ができた。そのために、受験勉強に取り組むギアを入れ替えた。
 そのきっかけになった早織への仕打ちが、勉強に集中する環境をもたらした。
 早織と会えない日々。自分には、勉強しかやれることがない。
 電話に出てもらえず、バイト先も早織が辞めてしまって、由起は途方にくれた。
 早織のバイト先に前川を連れていってしまい、それに早織が衝撃を受けたことはわかったから、すぐに謝って誤解を解こうとした。
 だが、早織は由起を拒んだ。由起はそう思った。
 自分が拒まれている、と知って、由起は自分への早織の好意を当たり前のものとしていたことに気づいた。
 早織に片想いしていたのはいつのころだったか、もう覚えていない。自分が好きな女の子が、無条件で自分を好きといってくれる。その幸福感は圧倒的で、そこに疑いをはさむことなど不可能だった。
 だから、早織が電話に出ないときに最初に感じたのは、戸惑いだった。
 自分が泣かせる原因を作っておきながら、早織が自分と話をしたがらない、ということが理解できなかった。バイト先に行って早織が不在どころかバイトそのものを辞めたと知った時も、何があったんだろうと心配したくらいで、まさか自分に会いたくないからだとはすぐには気づかなかった。
 今ではわかる。早織は自分に会いたくないのだ。それほどに傷ついたのだ。
 そう思えたのは、もしかしたらこのまま早織とは別れてしまうのかな、とふと思ったときだった。
 軽く考えたことばがみるみる胸の中に深い谷をきざみ、信じられないほどの喪失感に由起は気を失いそうになった。
 早織が自分の前からいなくなる。もう会えない。例えれば、それは早織がもし死んでしまったら、という想像にほぼ匹敵した。自分にとって、早織との別れは、イコール早織が死ぬことといっしょだ。不吉、そんなこと考えるものじゃない、という良識の声は由起にはほとんど聞こえなかった。
 早織が感じている苦しさは、自分の苦しさと同じかどうかはわからない。自分はどんなことがあっても早織と離れたくないが、早織は別の苦しさから自分と離れようとしているのではないか。
 この期に及んでも、由起は早織が自分を見限って会おうとしない、とは思わなかった。
 自分への気持ちは残っているのに、会わずにいようと思うほど、早織は絶望している。どうすれば早織の気持ちをいやせるのか、由起には見当がつかなかった。強引に会いに行けば、さらに苦しめるかもしれない。そうしたら、もう本当にお別れとなってしまうかもしれない。
 自分は、早織と離れられるだろうか、と由起は自問した。今だって、しょっちゅう顔を合わせているわけではないが、もし絶縁して、それこそ街ですれちがうくらいしか早織の顔を見られない事態になったら、自分はどうするのだろう。
 早織があの魅力を生かして、芸能人にでもなってくれれば、テレビや雑誌でいつでも見られるかもしれないが、そうでなければ、こちらから早織の元に行くしかない。仮に早織がいやがったとしても。
 そこまで思う自分は、きっと異常なんだろう、と由起は思う。
 昔から、早織がいやがることも平気でしてきたような気がする。自分の胸を見る早織をからかい、『エマニエル夫人』にさそって切符を買わせ、18歳までセックスを我慢しよう、と彼女に言わせた。
 体の芯に生まれる熱を鎮めるために、早織の体を思い浮かべるのはもちろんだが、もっとも興奮するのは、由起が軽く苛む言葉にゆがむ早織の泣き顔だった。今の絶望を生んだ喫茶店での早織の泣きじゃくる姿さえ、由起は何度も思い出し、体の中心に熱い手を押し付けた。
 こんな歪んだ自分に愛されて、早織はかわいそう。由起はそう思う。
 かわいそうな早織がこの上なく愛しい。
 早織の不在、早織と何の関係も無くなってしまうこと、早織が、自分以外の誰かのものになること。そんなのはだめだ、耐えられない。会えない時間があってもいい、遠くに離れていてもいい、でも早織は自分を好きでいてくれなくては。私のものだと、私だけを愛すると、私が求めればいつでも応えてくれなくては。
 それが叶わないなら、どうする? 早織を人のものにしたくないなら、この手で早織をあやめてしまう? 
 その極端な想像はめまいがするほど魅惑的だが、そのあとの決定的な早織の不在は耐えられない。由起の嗜好は最後は現実の枠におさまる。
 早織といっしょにいよう。自分が嫌われたとしても。
 そう結論づけて、由起は自分なりの覚悟を示すため、早織に会って許しを乞う時期を先送りすることにした。早織を傷つけたこと、そしてこれからも傷つけることの代償を由起は自分にも課さなければと思った。
 由起は文字通り、朝から夜まで勉強漬けの生活に入った。予備校の自習室が開く時間に入室し、夕方まで、講義のない時間は机に向かった。夜も閉室までねばった。帰ってから食事と入浴をすませると、さらに机に向かい、日が変わる時間に寝床に入る。その暮らしを、夏休みの間中続けた。
 もともと集中力はあるほうだが、早織とつきあうようになってからは、時々早織と過ごすことが適度な中抜きになっていた。その早織と今は会えない。
 夏が終わるまで、早織に会いに行くことを由起は自分に禁じた。会いに行かないことで、本当に早織の気持ちが自分から離れるかもしれないと思わないでもなかったが、由起は自分の早織への気持ちを固めることを優先した。
 自習室は前川も利用しており、由起に声をかけることもあったが、由起が勉強に集中していると見るや、由起への干渉を控えるようになり、前川もまた参考書にまっすぐ向きい始めた。ふたりの雰囲気は自習室全体に拡がり、予備校の自習室は張り詰めた空気で満たされるようになった。自習室本来の姿といえるが、現役受験生の夏休みはまだ真剣なモードに入れない生徒が多く、雑談や居眠りが珍しくないというのが例年の様子だった。あまりの厳粛さに不満を持つ生徒もいるだろうが、予備校としては今年の利用状況こそ望ましい。
 早織に会うことを自らに禁じたが、寝る前に由起はいつも早織の姿を思い描いた。
 そして、眠りに落ちるまで、早織、早織、とつぶやいた。せめて夢の中で早織に会いたかったが、夢に早織が出てきたかどうか、朝起きるときはまったく覚えていなかった。
 一度だけ、とても大切な人がいない、でもその人の名前が思い出せない、という苦しい夢を見て、目覚めてから大急ぎで早織の名を称えて、名前を思い出せたことにほっとした。
 もし夢の中で名前を思い出せていたら、きっと早織が出てきてくれたのに。まだ自分の早織への気持ちが足りないから、あんな夢を見るのだ。
 泣きそうになったががまんした。早織に会うまで、涙は流さない。これも早織を悲しませた自分へのペナルティだった。
 模試の結果が帰ってきた。志望校判定はB。前回がほぼ圏外だったことを考えれば、上出来だ。気をゆるめることはできないが、夏の勉強の成果は一応出せた。由起は大きく深呼吸して、自分の頑張りを少しだけほめた。
 2学期が始まり、自習室の空気も少し落ち着いてきた。雑談が許されない張り詰めた雰囲気は薄まり、勉強を教え合う声や情報交換の囁きがときおり聞こえる。いずれも勉強している邪魔になるほどではない。
 由起が席に着いて問題集を出していると、知らない女子高生が横に立った。
「平田由起ってあんた?」
 制服に見覚えがある。というより、忘れるはずのない、早織と同じ制服。
「そうだけど……」
 由起が声を落とした。
「ちょっと顔貸してくれる」
 女子高生は由起の返事を待たず、自習室を出て行った。
 一瞬考えて、由起も後を追った。U高の子なら、たぶん早織に関係のある用件だろう。
 U高の女子生徒は、予備校を出るとビルの裏手に回り、そこで立ち止まった。
「あたし、落合。帆波の友だち」
「さおちゃん……早織の?」
 早織に友だちがいた。ずいぶん、派手な子だけど。もしかすると、早織が同性を好きだと告げた子?
「ふうん、確かにかわいいね。帆波がいうだけのことはある。あたしには帆波のほうが全然美人だと思うけどね」
「あの、何か私に用ですか?」
「用ですか、じゃないだろ。ひでえ女」噛んでいたガムを銀紙に包む。「勉強がそんなに大事かよ」
「何言っているのか、わからないけど」
「あたしにもわからない。なんでこんな所に来たのか。ただ、帆波がさ、あんまりかわいそうで」
「さおちゃん……早織がどうかしたの?」
「勇気を出して好きだって言った女に裏切られて、すっかり元気なくしてんのに、看護婦なるためにこつこつ勉強始めてさ。でもわかんないとこだらけで、どうしたらいいか、って悩んで。あたしもばかだから勉強なんて教えられないから、頭のいい元彼女に教えてもらえば、って言ったら、勉強の邪魔できないから、自分でなんとかするってさ。振るのはしかたないけど、せめてちょっとだけでも勉強見てやったら、と言おうと思ってのこのこおせっかいにきたってわけ。あたしのつきあってんのがK高にいて、そいつからあんたの彼氏のこと聞いて、さっきそいつからあんたのこと教えてもらった」
「前川くんなら、彼氏じゃない」
「そうか? 帆波は見せびらかし来たようなこと、言ってたけど」
「見せびらかしになんか行ってない。変なこと言わないで」
「でも、いっしょだったんだろ」
「いっしょにはいたけど……」
「つきあってんじゃん」
「だから、つきあってないって言ってるでしょ!」由起が声を上げた。
 落合万里子は一瞬目を見開き、それから微笑んだ。
「なら、どうして帆波にそれを言ってやらないの?」
「え……」
「帆波だってわかってるよ。あんたが裏切ったりしてないって。でも、あんたの口から言ってやんなきゃ、帆波だって納得できないだろ? 意地張ってるんだかなんだか知らないけどさ、誤解はこさえたほうが解いてやらないと。あの子、あんたが男とつきあうのは当然だ、女の自分なんかふさわしくない、って泣くんだ。たまんないよ。あんな飛び切りの美少女が、自分なんか、って言うのは。あたしらみたいな一般人はどうすりゃいいのさ」
 目の前の派手な女子高生の目がとてもやさしいことに由起は今になって気づいた。この子は、友だちのために、言いにくいことをこうして言いに来てくれたのだ。
 言い訳したい気持ちもあったが、由起は言葉を飲み込んだ。
「早織、元気ないの?」
「あるわけないじゃん。何でもないふうにしてるけど、いつもぼうっとして、どこ見てるかわからないし、試験勉強するっていっても全然集中できてなさそうだし。あんな美人がぼんやりしてると、それこそ幽霊みたいで」
「やめて。早織をそんなふうに言わないで」
「ふうん、やっぱり、本当に好き合ってんだ、あんたたち」
 万里子が意味ありげな目で見る。からかわれていることに由起はやっと気づいた。
「そうだよ。私たち、女同士で愛し合ってる。レズビアンだよ。早織も言ってたでしょ」
「そっか。なら、早く仲直りしなよ。でないと」
「何?」
「あたしがもらう」
「絶対に渡さない!」
 由起は子供っぽいあかんべーをして、万里子に背中を向けた。
 歩き出してから、振り返った。
「ありがとう」
 万里子が手をひらひらと振って、早く行きな、と呟いた。

 電話もしないでいきなり早織の家を訪ねるのは初めてだった。
 家にいるかどうかもわからない。インターホンを押すと、「どちらさまですか」と懐かしい早織の声がした。
「私。由起です」
 インターホンの向こう側で早織が息を飲む気配がした。
 少しして、「……どうして?」
という声がした。
「ごめん。さおちゃん、謝りに来たの。顔見せてくれる? もしいやだったら、このまま話させて。話終わったら、すぐに帰るから」
 ぶつっとインターホンが切れる音がした。だめか、と由起があきらめかけたとき、玄関のドアが開き、早織が裸足で飛び出してきて、由起に抱きついた。
「さおちゃん……」
 早織が子供のような泣き声を上げた。由起も嗚咽を漏らしそうになったがこらえた。自分はまだ泣くわけにいかない。
 早織が落ち着くのを待って、ふたりは早織の部屋に上がった。
「今日、お兄さんたちは?」
「出かけてる。夜まで帰らない」
 ということは、今は早織と二人きりなんだ。ちらりと心に浮かんだよからぬ思いを由起は急いで振り払った。今日はそういう日じゃない。
「飲み物持ってくるね。そこらに座ってて」
 早織が部屋を出て行った。
 何か月ぶりかに入った早織の部屋を見渡した。特に変わったようすはない、かすかな、早織のにおいも懐かしい。由起は思い切り息を吸った。机の上に、看護学校入試の問題集が開いていた。早織もがんばっている。由起は鼻の奥がつんとした。
 だめ、まだ泣いちゃだめ。
「お待たせ」
 早織がサイダーとコップを載せたお盆を運んできた。
 サイダーをコップに注いで、ふたつのグラスを合わせた。のどが渇いていたので由起は一気に飲み、喉をひりつかせた。早織は口をつけただけで、泣きはらした目で由起を見つめている。由起は思わず目をそらした。
「さおちゃん、今までごめんね。ずっと連絡もしないで。それから、前川くんのこと」
 早織が首を振った。
「ううん、こっちこそ。電話にも出なくてごめん。それから、あの人とのこともあたしが誤解して、由起が男の子とつきあい始めたって思っちゃって。野球の応援に行ったんだよね。その子の学校の」
「誰かに聞いたの?」
「学校の友だちがK高の子とつきあってて。その子から前川くんに話きいてもらったの」
「友だちって、もしかして落合っていう派手な子?」
「由起、知ってるの?」
「予備校に乗り込んできた。さおちゃんを泣かせるなって。迫力あったよ」
「ええ、落合さん、そんなことしたの。やだ、あたし、何も頼んでないよ。ほんと」
「いい子だよね。あたしたちのこと、認めてくれてた」
 早織をもらう、と言ってたことは内緒にしておこう。
「由起、勉強大変なんでしょう。それなのに来てくれてありがとう」早織が笑顔を作った。「あたし、もうだいじょうぶだから」
 妙な雰囲気にならないうちに早織が自分を帰そうとしている、と思い、由起は少しさびしくなった。でも早織のけなげな気持ちは大切にしよう。
「わかった。私行くね。その前に、これだけ、見てほしいの」
 由起は鞄から今日渡された模試の結果表を出した。
 不思議そうに受け取る早織を由起は見つめた。今まで、自分の模試の結果など見せたことはない。
「S大学医学部、合格可能性B……。え、由起、医学部にしたの? それで、Bって、すごくない?」驚く早織に由起はVサインで応えた。
「うん。頑張ったでしょう。私、医者を目指す」
「ほんと、すごい。医学部って、難しいってことしか知らないから、この結果がどれだけ大変なのかピンと来ないところあるけど。由起ってやっぱり頭いいんだ」
 すごいすごい、と言ってくれる早織の言葉に満ち足りて、由起は早織の手を取った。
「笑わないでね。さおちゃんが看護婦さんになるって聞いて、私も自分で何ができるか考えた。いっしょに看護婦さんになるのもすてきだな、と思ったけど、それよりもさおちゃんを守れるような大人になりたい、いつもそばにいて、何かあったらすぐに助けてあげられるような。お医者さんはそのための、私の目標」
 驚いた顔で聞いていた早織が、目を細めて、握られている手をふった。
「いいね、由起といっしょに病院で働けたら」
「簡単じゃないのは覚悟してる。医者になったからといって、さおちゃんと同じところで働けるとは限らない。でも、さおちゃんが看護婦で私が医者なら、同じ世界にいられるでしょ。私はそう思える。日本の端っこと端っこにいたって、そう思う。思いたいの」
「あたし、由起の病院についてくよ。どこだって!」
「まだ、ずっと先の話だけど」由起はこらえきれずに笑い出した。取らぬ狸の皮算用どころか、まだ猟師になる試験さえ受けていないのに。「だから、私勉強がんばるよ。目指すのは国立大学の医学部だから、やることすごく多いけど。いざとなったら浪人も覚悟してる」
「だいじょうぶだよ、由起なら。模試だってBなんでしょ。このまましっかり勉強すれば、絶対合格する。あたし信じてるから」
「ありがと。さおちゃんもがんばって。いっしょに勉強しようよ。どっちかのうちで」
「由起の邪魔にならなければ、あたしはすごいうれしい。自分だけだと手に負えないところがあるんだ」
「私もひとりだと煮詰まるから、由起とときどき会えると励みになる」
 早織が由起を見つめてくる。由起も見返し、すっと顔を近づけた。由起も顔を寄せて、あと数センチのところで止めた。目は開けたままで、早織が囁いた。
「由起は、がまんしてくれるよね?」
 早織の息を感じて由起はのどの奥がむずがゆくなった。
「うん。もちろん」
 由起の声もかすれた。
 早織が笑みを浮かべて、顔を引いた。由起は目を閉じ、いままで間近にあった早織の顔をまぶたの裏にやきつけておこうと思った。それと、早織の息の香りも。

 9月まで順調だった由起の成績は、10月から頭打ちになり、志望校の合格可能性はC判定に留まるようになった。夏の間、人より集中したことで上位の成績を収めたが、秋になり受験生の多くがモードを高めてきたことで、相対的な順位が下がったのだが、由起は自分の努力が足りないからだと自分を責めた。
 国立大学の医学部といえば、東大・京大に匹敵する難易度だから、苦労するのは承知していたが、どれほど時間をかけても模擬試験で思うような点がとれないと焦りが強くなる。現役高校生の受験は最後まで力を伸ばして合格ラインを突破すればいい、というセオリーは耳にしても、自分にあてはめてみることが由起にはできなかった。
 夏に合格可能性に手が届きかけたと思ったのも災いした。多くの現役生が、低い合格可能性から勉強を進めるにしたがって少しずつ判定結果をよくしていくことでモチベーションを上げているとき、由起は現状維持すら難しい自分の状況を、客観的に見る余裕を失っていた。
 今回から国公立大学入試に導入される共通一次試験の準備も負担だった。マークシート記入による新しい解答方式、五教科七科目が課せられるという範囲の幅広さに、初めて向き合う受験生の多くが戸惑っていた。出題の難易度は高くないといわれたが、各予備校が実施した模擬試験は決して易しくなく、受験生に本番への警戒を強めさせた。
 特に科目の多さが完璧主義の由起を苦しめた。本来は医学部受験では必要のない社会や国語も、共通一次試験のために準備をしなければならない。暗記の必要な科目では時間も必要だ。これらをきちんとこなそうとすれば、二次試験で立ち向かう記述式設問への取り組みが不安になる。
 国立大学の中には、初めて実施される共通一次試験による第一段階選抜、いわゆる足切りを実施することを表明しているところもあり、こういう大学では一次試験は通りさえすればそれほどの高得点は必要ないだろう、といわれていいた。だが、何しろ初めての年で、データが存在しない。受験生はもちろん、予備校も高校も、マークシート方式に慣れさせる以上の新しい受験制度に対する格別の対策を打ち出すことができずにいた。由起たち受験生は、それまでの勉強方法にすがりついて見知らぬ試験に臨まなければならなかった。
「さおちゃん、私だめかも」
 十二月に入って、由起はとうとう早織に愚痴をこぼした。これまでは決して弱音を吐かずにいたが、前回の模試でとうとう志望判定がDに落ちたのだ。
 早織の部屋で、由起は机に向かわず、床に座って脚を投げ出していた。問題集も参考書も鞄からは出していない。
「大変そうだね。体だいじょうぶ?」
 床に置いたローテーブルに向かって看護学校の過去問を見ていた早織が顔を上げた。
「ぼろぼろ。にきびもすごいんだ」由起がぱさついた前髪をあげて、額をさらした。「さおちゃんに見せられない」
「気にならないよ」早織が笑って、テーブルの脇にあったサイダーの瓶からコップに中味を注いだ。「ビタミンC取ればよくなるって」
「それ、無果汁でしょ。でもありがとう。ああ、なんかぱーっとお酒でも飲みたい気分」
 由起はサイダーを一気に飲んだ。「うう、のどにしみる」
「うちのお父さんがビール飲んでるときみたい」
 早織が笑い、つられるように由起も笑みを浮かべて「お姉さん、お代わり」と空のコップを差し出した。
「お客さん、飲みすぎですよ」早織がお酌して、「今日はこのくらいにしておいたほうがいいんじゃないですか」と取りすました声を出した。
「そんな冷たいこといわないでよ」由起が甘えるように言う。「俺もいろいろつらいんだから」
 早織が吹き出した。
「由起、おじさんの真似、全然に合わない」
 しばらくふたりで笑った。
「さおちゃん」
「なに?」
「ちょっとだけ、肩揉んでくれない?」由起が早織の顔を見ずに言った。
 少し早織はだまり、「いいよ」と言って由起の隣に膝をついた。由起は体を横に向けて、手で自分の髪をまとめて首を前に落とした。早織の手が肩に置かれる。
「気持ちいい」
 早織が手を動かすと、由起は体の力が抜けてきた。早織の手の暖かさが肩から腕、背中へしみてくるようだった。
 目を閉じていた由起は、急に首筋に早織の息を感じてはっと頭を起こした。ごん、と早織の顔にぶつかる。
「いた」
「あ、ごめん」由起が振り向くと、早織が鼻の頭に手を当てていた。
「ううん。あたしこそ、ごめんね。由起の髪の毛からいい匂いがしてきて、がまんできなくて」
 由起はもういちど背中を早織に向けた。「ちょっとさおちゃんを誘惑してみた。ごめん」
 早織が由起を後ろから抱きしめた。何か言いかけたが声を出さずに、由起の肩に顔をうずめた。由起は早織の腕をさすって、早織が力を抜くのを待っていた。
 少しすっきりした頭で、これからは共通一次の準備に集中しよう、と由起は考えた。模試の結果は気にしても始まらない。二次試験の準備は一次が終わってから。時間は限られている。やれることをひとつずつやるしかない。


<早織>の四



「帆波、いっしょに帰ろ」
 放課後、落合万里子が声をかけてきた。特に約束もしないで、ときどき早織は万里子と下校するようになった。
 商店街ではクリスマスの飾りが華やかだった。歳末の売り出しの案内と、クリスマスソングが流れる中を、コートに身を包んだ人々が足早に行き交う中、下校する高校生たちはゆっくりと歩く。
「帆波はクリスマス予定あるの?」
「バイト。『タイタン』で人手不足だから手伝ってくれないか、って頼まれた。クリスマスはみんな予定入れるらしくて」
「へえ。勉強は大丈夫なの」
「あたしの受けるのは専門学校だからね。それほどハードにやらなくてもなんとかなりそう」
 早織が笑った。
 試験がある以上、受かるかどうかの保証は無いが、看護学校にもランクがあり、早織は確実に入れそうなところを選んで願書を出した。高校入試と同じくらいの倍率、といわれ、それがどれくらい大変なのかやさしいのか見当がつかなかったが、進路指導の教師は早織の成績を見て看護学校の候補を挙げた。
 いくつか見学に行った上で、夏に話を聞きに行ったK駅近くの学校を第一志望にした。試験日程がかぶらない学校にも願書を出して、もし最悪どこも受からなければ准看護学校という手もある。要は将来の看護婦になれる道筋さえつけばいいのだ。
「落合さんは、彼氏とデート?」
「あっちは受験生だからそれどころじゃないとあたしは思ってたんだけど。クリスマスだけはいっしょにいよう、とか言っちゃって」
「K高だと、けっこう難しいところ狙ってるんだよね」
「どうもは、なから浪人するつもりらしいんだよね。一浪ヒトナミとか言って。K高は半分くらい浪人すると言ってたけど、どうだろう、自分を正当化してるだけかもしれない。受験しないあたしがあれこれ言うことじゃないけどね」
 万里子がからからと笑った。
「あの子はどうなの? K女子の由起ちゃん、だっけ。やっぱり今は追い込み?」
「がんばってるみたい。このところ会ってないけど、そういうときはあの子本当に集中して勉強するから」
「ふうん。それで帆波はクリスマスにバイト入れたんだ。かわいそうというか、けなげだね、早織ちゃんは」
 由起とのつきあいを普通の話題にしてくれる友だちがいてくれてよかった、と早織は思った。
「クリスマスプレゼントは贈りたいんだけど、何がいいか決められなくて」
「そうだねえ、受験生だから、アクセサリーとか贈っても、それどころじゃないって思われるかもね」
「落合さんは、彼氏に何か贈るの?」
「無難なところで、マフラーとか手袋あたりかな。あたしだと思って温まってね、なんちゃって。手編みできればそっちのほうがありがたみあるだろうけど、あいにくとそんなスキルないしね」
「そうかあ。手袋はいいかも。あたしもそうしようかな」
 明日、探しに行ってみよう。
 早織は由起に似合いそうな色は何だろうと考えた。燃える血の赤。何もかも、醜さや汚れも隠してしまう積もる雪の白。どちらも似合いそう。
「問題は、プレゼント渡した後なんだよね」
 万里子がすれ違ったカップルに目をやった。それから、いかにも聞いてほしそうに早織を見て、目をそらした。自分からは言い出しにくそうだったので早織がきいた。
「いっしょに過ごすんでしょ」
「どうしようかと思って。お互い、うちには家族がいるし、ちゃんとしたホテルは予約でいっぱいだろうから、ふたりきりになるのは難しそうなんだ。ラブホテルは抵抗あるしね」
 映画を見たり、ごはん食べたりしてから、クリスマスの飾りを眺めて散歩する。そういうデートでは今どきの高校生は満足しない。そこから先に行くカップルは、由起が言ったように、特別珍しくもないのかしら、と早織は思った。少なくとも目の前の女友だちは、そっちの人のようだ。
「まあ、今年はがまんさせるかな。曲がりなりにも受験生なんだし」
 ひとりで納得したような顔でうなずいている万里子に由起がおずおずと声をかけた。
「あの、きいてもいいかな。言いにくかったら言わなくていいんだけど」
 なに、という表情の万里子から視線をそらして早織は続けた。
「落合さんと、彼は、いつくらいから、そういうこと、してたの?」
「高一」ちゅうちょなく万里子が答えた。「夏休みにね」
「そうなんだ」早織が顔を赤らめた。自分で聞いていて、すぐに返事が来て恥ずかしくなった。「それで、どうだった?」
「どうって?」
「何か、感動した?」
 由起があっけにとられた顔をして、それから声を出して笑った。
「ない、ない。感動も何も。めちゃくちゃ痛かっただけ」
 万里子が顔の前で手のひらを左右に振る。
「痛いの?」
「うん。初めてはみんなそうだってさ。雑誌に書いてあったけど半信半疑? だったんだけどね。正直言って、こんなことなんでみんなやってるんだろう、と思った」
「そうなんだ……」
 痛いのか。早織は、好きな人との行為に抱いていた漠然とした憧れに水を差されたような感じがした。
「あれ、何か怖がらせたかな」万里子が笑った。「すごく深刻な顔しちゃって」
「ううん、何でもない。それで、それからも、その、してるの?」
「最初の時、あいつ避妊具つけなかったから、あたし終わったあとすごく焦ってさ。つけないなら、もうさせない、って宣言して。しばらくやらせなかった」
 万里子の言葉はあけすけだったが、早織はいちいち反応せずに、黙って聞いていた。
「だいぶたって、いっしょにいる時に、なんとなくいいムードになって。あいつがせまってきたから、『持ってるの』ってきいたら、ポケットから取り出してさ。ずっと前からあたしと会うときは持ってたって。ちょっと笑っちゃってね。その時は、うん、少し気持ちよかったかな……あは、あたしって下品だね」万里子が自分の髪をくしゃくしゃとかきあげた。「あたしの初体験話は以上。それで、帆波は?まだバージン?」
 早織は返事ができず、うつむいた。
「ああ、いいよ答えなくて。いきなりでごめんね。あたし、いっつもこうでさ。星野にもそこは怒られる。しゃべるとき、一拍頭で数えてから口にしたほうがいいって」道を歩いている人の耳を気にするように万里子は早織に近づいて声を落とした。「初体験まだだからって気にすることないからね。バージンがめんどくさいから、適当な男にやらせてさっさと処女捨てるとかいう子もいるけど、帆波にそういうの似合わないから」
「めんどくさいなんて、思ってない」
「なら、いいんだ。帆波にはさ、自分を大事にしてほしいって思うんだ。あたしが言うのもなんだけど」万里子は大股で歩き出した。「どっちにしてもさ、避妊だけはちゃんとしなよ。この年で妊娠も中絶もごめんだから」
「心配してくれてありがとう」早織はちらりと周りに目をやった。すぐそばを歩いている人はいない。「でも、女同士で避妊は必要?」
 早織の言葉の意味を受け止めるまでにちょっと時間がかかり、きょとんとしていた由起はやがて顔を赤くした。「そうか……そう、だね。いらないかも、ね」
 さっきまでさんざんあけすけな話していたくせに、とやや意地の悪い気持ちで由起は万里子のうろたえぶりを眺めた。由起もときどき自分をこういう目で見ていることに、早織は気づいていない。


<由起>の五



 緊張して迎えた共通一次試験はまずまずの手ごたえだった。自己採点してみると、予想以上に高得点が取れていた。
 由起はひとまず安心したが、二次試験に向けて、まず出願校を決めなくてはならない。今年初めての共通一次試験には過去のデータがなく、どの程度の得点でどこの大学に合格できるか、という予想がつかない。全国的に受験生の情報を集められる予備校、模擬試験業者が実施する、合格可能性の判定サービスに応募して、受験生全体の自分の位置を偏差値で把握し、それに見合う志望校を選定する。由起もそのサービスに申し込んだ。
 二次試験の出願まで時間も迫っており、結果判定は迅速に届けられた。
 志望していた首都圏にある国立大学の医学部判定はB。合格可能性としては60%から70%、とあった。
 由起は素直にこの評価を喜んだ。二次試験は数学と英語、それから小論文。新しい入試制度ということもあり、多くの大学で二次試験の科目数を減らしていた。由起の志望大学も、一次試験の結果を重視すると入試要項で告知していた。この分なら合格の可能性はかなり高い、と由起は自信を深めた。
 誰かに自分の判断の後押しをしてほしくて、由起は予備校の自習室で前川に声をかけた。
「平田さん、C大の医学部、B判定だって?そうか、とりあえずおめでとう」
「合格したわけじゃないから」
 由起は浮かれて見えないように、そっけなく応えたが、内心では得意だった。
 十二月から、共通一次試験が終わって予備校の予想判定が出るまで、早織とは電話で話す以外、会わずにいた。その電話もクリスマスと元日に短くあいさつを交換してからは、共通一次試験の前日と終わった日に励ましと慰労の言葉を早織からもらう短いやりとりだけだった。
 その努力が報われた(まだ合格していないが)と思うと、由起は自分を誇らしく思う気持ちを止められなかった。
「前川くんは、どうだったの? 出願校決めた?」
「受ける前は自信がなかったんだけど、結果がいい線行っていて、だめもとで調査希望に書いた京都大学がB判定でさ。志望校変えようかと思って」
「すごいね。前川くん、やるときはやるね」
「京大は一次試験のウエイトが大きいんだ。だから可能性けっこうあると思う」
「今まではどこ志望だったの?」
「北海道大学」
「京都とは関係ないんだ」
「同じ大学行くなら、ロマンあるところに行きたいんだ」
 そういう志望動機もあるのかもしれない、と由起は思った。由起の目指す国立大学の医学部は、ほぼ日本全国に散らばっていて、地元の受験生に加えて、合格可能性をさぐって全国の受験生がさまざまな大学を選ぶ。大都市圏の医学部は相対的に難易度が高く、地方の国立大学医学部は難関ではあるが、入りやすさという点ではいくぶん医学部志望者には易しいといえた。
「東大なんか考えないの」
 お世辞のつもりで由起が話を振った。
「あそこは一次試験を足切りに使うんだ。ぼくの点数だと微妙らしいんだよね」
「足切りって、どれくらいなの」
 東大にも医学部はあるが、さすがにそんなところを目標にしてはいないので、東大受験の情報を由起は知らなかった。
「文系のいちばん入りやすいところだと、これくらいかな」
 前川が口にした東大の足切り、つまり第一段階選抜のための必要な点数を聞いて、由起は少し驚いた。自分の自己採点結果のほうが上回っていたからだ。
 そこに届かない、ということは、前川の共通一次試験の点数は自分よりも低いということだろうか。
 ストレートに何点だったかとはききづらい。前川の試験の手応えも気になった。
「共通一次って、思ったよりやさしくなかった?」
「直前の模試よりはやさしく感じたな。本番までに実力付いたってことだと思った」
「予想どおりの得点だった?」
「直前の模試よりは点数上がったよ。模試がひどすぎたんだけどね」
 由起も模試より点数を上積みした。その結果のB判定だと思っていたが、自分より低い点数で京都大の合格判定がB判定という前川の結果は腑に落ちなかった。文系の前川とは違うが、今の自分が京都大に受かるとは思えない。それは医学部であっても同じかもしれない。
 もしかしたら、手放しで喜んでいる場合ではないのでは。由起はにわかに不安になった。
 高校の進路指導室で相談すると、由起の共通一次の高得点をほめながらも、進路指導のベテラン教諭が由起の不安を裏付けることを告げた。
「共通一次試験は、最初の年ということもあって、かなり難易度が下がったようね。平均点は発表になって、これは事前の予想通り。というか、その点数になるように問題を作ったから、当然ね。問題は、高得点層なの。事前のそっくりテスト、というのがあって、平田さんも受けたと思うけど、これを受けた生徒の点数見ると、みんな本番のほうが上積みされている。だから、本番で取れた高得点を、鵜呑みにしてはいけない、ということね。テストが易しくなって、上位の生徒がみんな点数伸ばしたら、争いは高いところで行われる。油断は禁物よ」
 指導教諭は、由起の志望校の難易度から見て、合格可能性は半分か、もう少し厳しく見たほうがいいかもしれない、と告げた。チャンスがあるとすれば、二次試験にある小論文で、これは理系の受験生には苦手とする人が多い。由起は国語も得意としていたから、直前にある程度準備をすれば武器になる、必要なら添削指導もする。
「少し考えてみます」と言って由起は進路指導室を出たが、二次出願の締切日は間近にせまっていた。考える時間はあまりない。
 今の志望校を変えるとしたら、予想合格ラインが下がる他県の大学の医学部を狙うことになる。こちらの合格可能性は、二次試験次第という大前提はあるが、共通一次試験結果からの判定はA判定だった。学校の指導教諭の感触どおり、判定がかなり甘いとしても、今の志望校よりは合格できる可能性は高い。
 でも遠い。早織とは離ればなれになる。
 医学部は卒業まで6年間かかる。その後も、国家試験に受かるまで、あるいは受かったあとも卒業した大学の付属病院で研修医を務めるのが普通だ。そうなると、もうほとんどその場所に骨をうずめることになるのではないか、と由起は思った。
 十八の少女に、十年後の未来は想像ができない。自分が置かれている環境も、自分の気持ちも。
 自分が早織に抱く感情がかりそめのものとは思わない。離れて会えなくなったとしても、それが理由で早織に対する気持ちが薄れていくとは考えたくなかった。
 いっしょにいられたからといって想いが冷めない保証はないよと、人生をわかった大人なら諭すかもしれないが、そんな言葉に由起は耳を貸さないだろう。
 看護婦になるという早織を喜ばせたくて選んだ医者になる夢は、今は由起自身の確固とした志望進路となった。
 医学部へ合格するための受験勉強は思いつきだけでは続けられないほどハードなもので、それに耐えるためには、どうしても医者になりたいという意志を研ぎ澄ます必要があった。
 勉強の合間に、医師という職業についての本を読み、現役の医師のエッセイに触れ、医療に関わる多岐にわたる仕事について調べた。中学三年の時に声が出なくなった経験、病院で見かけたさまざまな治療中の人たちの記憶が、苦しんでいる人のために働きたいという若者らしい利他心をかきたてた。医師の仕事の崇高さ、大変さ、そしてその立場を獲得するための困難、それらは由起の目指す生き様にはまった。
 医者になりたい。そのためには、医学部に合格しなくてはならない。多額の費用がかかる私立大は選択肢には入らず、由起のとるべき道は限られるが、それでも全国に国公立の医学部はあり、どこを出ても医師にはなれる。それなら、今、合格可能性の少しでも高い大学を選ぶべきではないか。でも早織と離れるのは……。
 堂々めぐりに疲れて、由起は早織に電話をした。心配かけたくなかったが、自分だけで決めていいことではないような気もした。
「帆波です」
 うわ、おじさんが出た。由起は受話器をにぎったまま天井を見上げた。早織の家に電話をかけると、たいていは早織がすぐに出るか、お兄さんのときもあったが、おじさんは初めてだった。
「あ、夜分にすみません。平田です。早織ちゃん、いますか」
 声が上ずる。早織の父親でさえ、由起にとっては見知らぬ大人の男だ。
「ああ、由起ちゃん、こんばんわ。悪かったね、おじさんが電話出ちゃって」
「いえ」おじさんが謝ることでは。
「いま早織は風呂入ってる。いや、この時間にかかってくる電話は由起ちゃんかもしれないから、お父さんは出ないでとあいつに言われてたんだが、悪かったね。ちょっとかかってくるの待ってる電話があったもんだから」
「あ、だいじょうぶです。もう少ししたらかけ直します」
 そう言って受話器を置こうとすると、あ、由起ちゃん、と呼びかける声がして、由起はもういちど受話器に耳を当てた。
「由起ちゃん、医学部受けるんだって? すごいね」
「あ、はい。受かるかどうかは、わからないですけど、一応」
「そうかあ、おじさん、よくわからないけど、この間共通なんとか、ってテストあったんだろ。あれでもう試験終わり?」
「いえ、これから二次試験があります。今、その願書書いてるところです」
「大変なんだ。おじさんは、がんばって、って無責任なことしかいえないけど、それでも、がんばってね」
「ありがとうございます」
「早織が看護婦になりたい、って言い出した時、おどろいたけど、親友の由起ちゃんがお医者さんになるって言ったからなんだよね。まあ、由起ちゃんが近くにいてくれたら、それは心強いだろう」
 おじさん、それは逆で、さおちゃんが先に看護婦になるっていったんです。由起は思ったが口にはしなかった。
「早織ちゃんも、もうすぐ試験ですよね。いっしょにがんばろう、って励まし合ってます」
「由起ちゃんほど難しい試験じゃないんだから、受からないとな。由起ちゃんに置いてかれちまう」
「こっちこそ、早織ちゃんに置いて行かれないようにしないと」
「うん、由起ちゃん、早織のこと頼むね」
 早織の父はそういって電話を切った。いつも家にお邪魔して顔を見かけても、無言で首を下げるくらいの不愛想な態度しか見たことがなかったので、電話でこれだけ話したことが由起には新鮮だった。
 娘を持つ父親は、みんなこんな感じなのかしら、と由起は思った。自分の父親は、幼いころに別れてから連絡を取っていないが、もし近くにいたら娘の自分の受験を気にかけるだろうか。
 少したって、早織が電話してきた。
 湯冷めさせてはいけないと、由起は手短に、看護学校の入学試験をがんばって、と激励して電話を切った。
 二次試験の出願校については切り出すのをやめた。遠方の大学を選んでも、浪人の覚悟で近県の難関医学部に挑んでも、早織は由起のやりたいようにして、と言うだろう。
 早織に何か言わせてはだめだ、と由起は自分の甘えを叱った。早織に責任を負わせてはいけない。自分の道は、自分で決めなくては。



 駅の改札から大学正門に向かう人の流れの中で、由起が立ち止まった。隣にいる早織の腕をぎゅっとつかむ。
「どうしたの、由起。もしかして、びびってる?」早織が由起の顔を覗き込んだ。「もう結果は出てるんだから。今さらじたばたしたって、何も変わらないよ」
「わかってる」由起は歩き出した。「わかってるけど。向こうから歩いてくる人が」
 由起が正門を指さした。こちらからの人の流れとは反対の歩み。すでに結果を知った人たちが歩いてくる。入学手続きの書類を持っている人。何も持っていない人。自分はどっちなのか。
「だいじょうぶ。あたしがついてるから」今度は早織が由起の腕をとる。「受かっていたら、いっしょに喜ぶ。落ちてたら、いっしょに泣く。そうでしょ?」
「さおちゃんはいいよ。もう合格決まってるから。私、落ちたら浪人だよ。また一年、受験勉強しなきゃならないんだよ。しかも予備校行って、朝から夜まで、今年とおんなじ勉強するんだ。さおちゃんだけ、さっさと看護婦さんになってさ、ずるいよ」
 早織がわざと明るくふるまっているのはわかっていた。自分の腕を掴んでいる早織の手に入っている力を感じた。もしかしたら自分よりも緊張しているかもしれない。それでも由起は早織に甘えずにはいられなかった。
「何言っての、あたしだって学校は三年間あるんだよ。だいたいさあ、難易度上がるかもっていいながら、ここに決めたのは由起でしょ。浪人も覚悟の上だって、言ってたじゃん」
「それは、そうなんだけど」
 由起が早織に手を引かれて大学構内へ向かう。学校に行くのをいやがる小さな子どもそのままだった。
 最終的に、由起は隣県の医学部に出願した。予備校の共通一次試験結果リサーチでは合格圏内となっていたが、進路指導教諭はおそらく五分五分と予想していた大学を選んだのは、由起の賭けだった。私立大学を受けず、国立一本で臨むからには浪人は覚悟しなければ、と母に相談すると、母は遠方に娘がひとりで下宿するよりも浪人のほうが安心、と言った。
「隣の県でも、家から通うのは難しいよ」
「あら、そっちだったらしょっちゅう帰って来れるじゃない。あなた、自分で洗濯なんかしないでしょ」
 そう、ここならいつでも帰ってきたいとき帰ってこられる。早織と会える。医者を目指すきっかけが早織だったのに、その早織と会えなくなるなら医者になる意味がない、と由起は自分の出した結論を正当化したが、早織と離れ離れになることが単純にいやだった。
 こっちの大学に受かればいいのだ。仮に浪人したって、早織には会える。
 早織の通う看護学校の近くの予備校に行けば、それこそ会いたいときに早織の顔が見られるかもしれない。そんな浪人生活も悪くない。
 そこまで考えて、ようやく由起は肩の力を抜いた。うじうじ悩んでいてもしかたがない。日本中の受験生が、この初めての試験制度に混乱して戸惑っているだろう。自分は自分で、やれることを精一杯やるだけだ。
 好きな子のそばで。
 悩みから抜けると由起は持ち前の集中力を取り戻した。私立の試験もなく、出願から二次試験までのひと月を、過去の試験問題と新しい小論文対策に没頭した。
 それでも早織の看護学校受験の日は試験会場まで早織に付き添い、試験中は予備校の自習室で過ごし、帰りも待ち合わせた。
 早織が試験を受けていると思うだけで自分の勉強もはかどった。早織が試験の手ごたえを感じているようだと知って、自分の試験にも自信が持てた。試験が終わって、発表前とはいえ束の間の解放感にほころぶ早織のまぶしい笑顔は、来る自分の安らぎを感じさせた。
 由起の二次試験はあっという間に終わった。途方にくれるような難問はなかったが、自分の書いた答案がどれだけ正解に到達しているかはわからない。小論文はうまく書けたと思う。あれで水準に達していないといわれたら、もう自分ではどうすることもできない。由起は、力を出し切った、と思い、満足だった。
 入試が終わると、由起は心身がゆるんで寝てばかりの日が続き、母親が仕事でいないのをいいことにパジャマも着替えず、一足先に第一志望の看護学校に合格を決めて遊びに来た早織をあきれさせた。
「学校はもう行かなくていいの?」
 布団から出ようとしない由起のベッドに早織が腰を下した。
「卒業式の予行練習があるだけ。あとは自主学習。もう勉強しないけど」
 由起は寝返りを打って早織を見上げた。
「さおちゃん、いっしょに寝よう」
「こらこら。約束はどうした」
 早織が笑っていなす。
「覚えています。さおちゃんの十八の誕生日までは、私たちは清い交際を続けます……って、合格発表の日なんだよ、さおちゃんの誕生日。これ、どうしたらいいの?受かってたらダブルのおめでとうでいいけど、落ちちゃったら、せっかくのさおちゃんの誕生日に水差しちゃう」
「受かってるよ、由起」早織が由起に顔を近づけて笑う。「落ちてたら盛大な慰め会やろ」
「慰める、ってなんかやらしい響き」
 由起がおどけて、早織の目を見つめた。ほら、おいで、さおちゃん。キスしよ。心の中で誘いかける。
 早織が体を起こした。
「あたし、近いね。ごめんね、誘惑して」
「さおちゃん、律儀すぎ」
 由起は恥ずかしくなって布団を頭からかぶった。誘惑したのはこっちなのに。
 浪人したら「約束」はお預けになるかもしれない。
 早織とそんな取り決めは交わしていないが、由起は自分からそう宣言してしまいそうな気がしていた。浪人中はストイックであるべきだ、恋人とでれでれしながら乗り切れるほど浪人生活は甘くない、とどこか(ラジオや雑誌)で、誰か(予備校の講師)が言っていた。
 一方で、浪人中の交際がプラスに働くと言ってた作家かラジオのディスクジョッキーがいなかったか。悶々とするより「すっきり」したほうが勉強ははかどる、とか言って。あれは男の子の話だっけ……。
「由起!」
 耳元で早織が叫び、由起は我に返った。合格掲示板の前で一瞬現実逃避していたようだ。
「ほら!」早織が掲示板を指差していた。その先に視線を送る。
 自分の受験番号と、カタカナで書かれた自分の名前。
「受かってる……」
 全身から力が抜けて、由起は地面にしゃがみこみそうになった。
 その体を早織が抱きしめた。
「やったね。すごいすごい。由起はやっぱりすごい」
 さおちゃん、だめだよ。みんな見てるから。由起がぼうっとした頭で周囲を見ると、意外と抱き合って喜んでいる子たちがけっこういた。
 そうか。今はさおちゃんを抱きしめていいんだ。
 由起の顔に早織が頬を押し付けてくる。早織の熱い涙を感じて、由起も目を閉じた。
 この子といっしょにいられて、よかった。合格できて、よかった。
 由起は早織の頭に手を当て、ショートヘアーをくしゃくしゃと撫でた。早織の泣き方がものすごくて、これじゃ受験生がどっちかわからないな、と由起は思った。
 由起の目からは涙は出てこなかった。自分の頬を濡らしている早織の涙が心にしみ込んでくる幸福感に由起は浸った。
 今、この場所で早織にキスしたら、まわりの人はどう思うだろう。驚いて、呆れて、笑って、もしかしたら怒り出す?その様子を想像して、由起はにんまりと笑い、早織を抱く腕に力をこめた。





「本当に大丈夫?」
 今日何度目かの心配を母に言われて、さすがに由起は声音を強くした。
「大丈夫だって、何回きけば気が済むの。危ないところなんて行かないし、セキュリティもしっかりしてるホテルだから心配ない」
「ドアをノックされても、絶対にすぐに開けたりしたらだめよ。内鍵かけてから、開けるのよ」
「わかってる」
「エレベーターに乗るときも、あとで強引に人が入ってくることあるから、必ず何人かの人といっしょにね」
 きりがない。早織と待ち合わせの時間にはまだだいぶあるが、由起は早めに家を出ようと思って時計を見上げた。
「そろそろ行かないと。さおちゃん待たせてるから」
「泊まるところ、Pホテルだった?」
「Wホテル。Pホテルは、ほら、芸能人が窓から落ちたから、危ないってお母さんが言ったんでしょ。わざわざ電話して、窓が開かないか聞いて、見つけたところ」
「そうなのね。なら、安心かしら」
 いつもの母らしからぬ心配ぶりに、由起は、母が何かに気づいているのではないかと疑った。娘がこれからしようとしていることに、親の勘が働いて、ブレーキをかけようとでもいうように。
 確かに、自分たちはもう後戻りできない世界へ踏み出すつもりでいる。母を裏切るようで少し胸が痛んだが、由起は、ごめんね、お母さんと心の中で詫びた。
 早織に友だち以上の気持ちを抱いていることを、由起は母に打ち明けようか迷った。もしボーイフレンドができていたら、たぶんすぐにでも報告しただろう。
 学校の友だちの中には、交際相手のことを親には絶対に言わない、と宣言している子が多かった。特に父親には絶対に知られたくない、母親に言えば父親にきっと伝わるから、母親にも言わない、という気持ちはなんとなく理解できた。
 自分の家には父親がいないし、母親とは仲がいいと思っていたから、由起は母親と恋の話をすることに抵抗感はなかった。
 ただ、その相手が女の子だとなると、話は別だった。母親は結婚して子供を生んでいるくらいだから、男の人を好きになる「普通の」女だろう。今まで同性愛に対しての感想を母から聞いたことがないが、「普通に」考えれば、理解できない、と言うと思う。
 「気持ち悪い」とまでは口にしないかもしれないが、それに近い感情を抱いているとしても不思議はない。まして、娘が同性愛者だと知ったらどうだろう。応援する、といってくれたらどんなに嬉しいかと思うが、絶対反対だと否定されることへの不安のほうが強かった。
 大好きな母親に、自分の気持ちと早織を汚らしいもののように思ってほしくなかった。
 玄関まで母がついてきた。やっぱり何か勘づいているのか。
「男の子から声かけられても、ついてっちゃだめよ」
「さおちゃん目当てで来るのはいるかも。でも、だいじょうぶ。私がしっかりと守るから」
「あら、由起ちゃんだってもてるでしょ」娘の卑下が気に入らないのか、母親が変なところでつっかかった。「そりゃ、早織ちゃんほどじゃないかもしれないけど、あんたのようなふわっとした女の子が好きって男の子はけっこういるわよ」
「さおちゃんほどじゃないって……ま、その通りなんだけどね」
「早織ちゃん、どんどんきれいになってるものね。看護婦さんもいいけど、芸能界とか行かないのかしらね」
 母は今度は早織をほめ始めた。
「興味ないらしいよ」
 早織が芸能界になんか入ったら、とんでもないことになる、と由起は思った。自分だけの早織じゃなくなっちゃう。
「芸能界っていろいろたいへんそうだし。そもそもさおちゃんよりずっとかわいくてきれいな人だらけなんだし」
 うそだ、と由起は心では正反対のことを考えていた。早織よりきれいな子なんてこの世にいない。
 行ってきます、と宿泊道具の入った鞄を肩にかけた由起に、母が「早織ちゃんによろしくね」と声をかけた。
 由起はドアノブに手をかけてから、母を振り返った。
「お母さん、さおちゃん……早織のこと、好き?」
「好きよ。どうして?」母が不思議そうに由起の顔を見る。
「よかった。私も早織のこと、大好き」
 由起はそう言うと勢いよくドアを開けて玄関を出た。
 お母さん、ごめんね、と由起はもう一度心で詫びた。
 今はここまでしか言えないけど。もしかしたら、ずっと言えないかもしれないけど。あなたの娘は、女の子に恋してしまいました。そのことで悲しませるとしたら、ごめんなさい。「普通の」ボーイフレンドを紹介できなくて、ごめんなさい。そして、これから私ふしだらなことをするけど、そっちも許してね。



<由起と早織>



 宿泊するホテルに近い駅のコインロッカーに荷物を預け、ふたりは都心にある遊園地に向かった。平日だがすでに春休みに入った中学生、高校生で遊園地は賑わっていた。卒業式は終わっていたが、ふたりともぎりぎり高校生ということで入場券を買った。
 おとなしめの乗り物から始め、昼食を取る前に由起が尻込みする早織を強引にジェットコースターに乗せた。動いている間中、目を閉じていた早織だが、終点に着くと意外と面白かったと感想を言い、由起のほうが降りるときに足をふらつかせた。
 背の高い早織の腕にすがって歩きながら、乗り物に乗るのにも運動神経が必要なのね、と由起が口惜しそうにつぶやき、早織を笑わせた。
 回転木馬には二人で並んで乗り、お互いの写真を撮った。お化け屋敷は早織がどうしてもいやだというので由起が、そんなにおばけが怖いの、と聞くと、早織は、暗いところでさわってくるおばけ役がいるから、と応えた。それを聞いた由起が、そんなことするやつは許さない、とすごい剣幕でお化け屋敷に乗り込もうとするのを、まだ何もされていないよ、と早織がなだめた。入らなければいいんだから、というと、怒りを込めた目で由起は、泣き寝入りしたら絶対にだめだよ、と説教口調で言った。痴漢に人権なんかないからね。
 夕方になり、ふたりは観覧車に乗った。赤く染まる園内に観覧車の影が大きく伸びている。ゴンドラの中のふたりも真っ赤だった。乗るときは向かい合って座っていたが、途中でふたりは並んで座り、手を握った。
 友だちとして過ごす、もしかしたら最後かもしれない。ゴンドラを降り、ご飯を食べて、そのままお互いの家に帰れば、明日からもずっと友だちでいられる。そうすれば、きっとおだやかで、それなりに充実した未来がふたりを待っている。でも、それはふたりの望みではなかった。もっと甘くて熱い、危険な世界こそふたりが乞うものだった。
 黙って顔を寄せてきた早織を、由起がそっとおしとどめ、ゴンドラの外を指さした。下に見える隣のゴンドラの中で、カップルがキスしていた。そして、さらに一つ下。その中には中学生らしい4人の男の子がいて、ゴンドラの窓に張り付くようにして、上のゴンドラのカップルを見物しようとしていた。下から見えるものなのかわからないが、中学生男子の必死な様子はうかがえて、ふたりにはおかしかった。
 ゴンドラが地上に着くまで、早織は由起に歌をねだった。由起が『夜明けのスキャット』を歌った。ゆきさおり、自分たちの名前を持つ歌手の歌は、ふたりのための歌だった。合唱部の由起の澄んだ歌声に合わせて、早織もそっと声を重ねた。ルルル、とスキャットを口ずさむ由起のすぼめた唇。早織の唇も同じ形となってスキャットを紡ぐ。離れていても、ふたりは歌声を間に唇を重ねていた。
 フルーツパーラーでご飯を食べて、ふたりはWホテルに向かった。チェックインでそれぞれ名前を書くとき、少し緊張したが、フロント係は特に何かをいうわけでもなく、カードキーを渡して使い方を説明した。他の客はサラリーマンや小さい子を連れた家族、夫婦(とは限らいないが)らしい年配の男女、などいろいろな人がいて、自分たちが目立っているとは思わなかった。
 部屋に入ると、ふたつのベッドが目に入った。ごくシンプルなツインの部屋。広くはないが、テーブルと椅子もあり、二人にとって不足するものはない。
 交代でバスルームを使う。トイレとシャワーがいっしょになっているユニットバスを使うのはふたりともはじめてで、事前に雑誌でホテルの使い方を調べていた由起が、バスタブの外で体洗ったらだめだからね、と早織に念を押した。
 浴室にセットされていたバスローブをまとい、早織が頭をタオルで拭きながら出てきた。頭を乾かしたら、先に休んでいていいよ、と由起が言って交代で浴室に入った。部屋にあるドライヤーを早織が使っているので、由起は浴室内に据え付けられていたドライヤーを使った。風力が弱く、髪が乾くまでに時間がかかった。30分ほどかけて由起が浴室から出ると、部屋の灯りが消えていた。フットライトのうっすらとした光だけが見える。
 のどが渇いて飲み物が欲しくなり、由起は部屋の冷蔵庫を開けようとテーブルに近づいた。暗さになれてきた目に、テーブルの上の飲みかけのジュース瓶が見えた。持ち上げると、半分ほど残っていた。早織が飲んだ残りだ。由起は瓶に口をつけ、残りのジュースをのみほした。
 ベッドに目をやると、ひとつのベッドの毛布が膨らんでいる。隣はメイキングされたまま。由起は使われていないほうのベッドに乗って、隣のベッドに向かって、さおちゃん、寝ちゃったの、と声をかけた。早織が毛布から半分だけ顔をのぞかせた。
 寝てないよ、と早織が応えた。
 そっち、行ってもいい?
 来て、と早織が毛布を広げた。由起がバスローブのまま早織の横に体をすべりこませる。早織もバスローブを着けたままだった。
 お待たせしてごめんね。髪乾かしてたら時間かかっちゃった。
 ちょっとうとうとしてたけど、由起がお風呂から出てきた音で目が覚めた。
 寝ててもよかったのに。
 寝られるわけないじゃん、いじわる由起!
 早織が、がばっと体を起こして由起の上に上体を預けた。唇を合わせる。由起の体が固くなり、すぐに力が抜けた。早織がさらに強く由起の唇を吸った。息をすることも忘れていた早織は、由起が顔をそむけ、口を開いて大きくあえいでいるのを見て、自分もはあはあ、と呼吸をした。由起がその顔を見てほほ笑んだ。その笑みに勇気づけられて、早織はもういちど、今度はできるだけやさしく由起の唇に自分の唇を合わせた。少し由起の口が開いているのに気づき、早織は自分の舌先を少しだけ差し入れた。由起の舌が早織の舌を迎えて、ちょんちょんとつついた。早織は胸から腰まで熱く火が通るのを感じた。
 唇を吸われながら、由起は早織のバスローブの背を撫でた。するりとした感触。早織は、バスローブの下に何もつけていない。自分は下着を着けて浴室から出てきた。それが恥ずかしくなり、由起は体をくねらせた。早織が由起のバスローブの胸元から手を入れてきた。下着にふれると一瞬ぴくり動きを止め、すぐに下着の上をそっと撫でた。下着の際に沿って指を動かし、胸の膨らみを覆うカップの頂点に達し、そこを押した。由起が声をもらす。
 早織は体を起こし、バスローブを脱いだ。自分の裸を由起の前にさらす。少しだけ目を見開いた由起に微笑みかけ、早織は由起のバスローブの紐を外した。下着の上から二つのふくらみを撫でる。その豊かな谷間に顔をうずめて、手を由起の背中に回し、下着を外した。
ずっと夢想していた頂が、暗闇の中でも光って見えた。早織はその先を指でそっと触り、それからさきほどまで由起の唇を吸っていた口を押し当てた。由起がのけぞり、甘い声が聞こえ、早織は夢に見ていた肉の先端を思うままになめ回した。由起のものが固くなったと思ったとき、由起の腹に当てていた自分の乳首が固く立っていることに気づき、由起の上下するおなかの動きにあらがうように自分のふくらみを押し当てた。瞼の裏に光が走り、ほんの一瞬、早織は意識を失った。
 自分の体の上で体をこわばらせた早織が、自分の胸の谷間でもらした熱い声に由起は心臓が焼かれるような気がしてじっとしていられず、体を入れ替えて早織の上に乗りかかった。潤んだ目で見上げている早織の顔に、由起は垂れているふたつのふくらみを押し付けた。口に含んだ早織の舌を感じて、由起は声をもらす。さらに胸をおしつける。膨らみを由起の口の中に全部収めるかのように力を入れると、息が苦しくなった早織が大きく鼻の穴を開いて酸素を取り込んだ。その様子に由起は乱れ、胸を早織から離し、今度は由起の鼻に唇を当てた。早織の尖った形のいい鼻に歯を立てる。鼻の骨を感じて、さらに力を入れようとしたところでかろうじて由起は自分を抑えた。鼻に歯型がついたら大変。そう思った由起は、早織の鼻を舐めた。舌で自分の歯の跡を懸命に消そうとした。くすぐったいのか、早織が顔をそむけ、由起の舌が早織の目の上を舐めた。塩辛い、涙の味。もっと、もっと味わいたい。
 由起が自分の顔から離れ、早織の手を取ってばんざいの姿勢をさせた。されるままに手を頭の上で組むと、由起が口を吸ってきた。それからいきなり下半身に手を伸ばし、すでに熱く潤っている早織の股間に指を当てた。早織はたまらなくなり、自分の口を覆っている由起の口の中に声を投げ入れた。この格好は、映画で見た……スカッシュコートの横で、年上の女性に愛撫されるヒロイン。その画面と、今自分の体に起きている事態が重なって、早織は由起の手を両腿ではさみ、腰を動かした。映画のヒロインがやったように。由起が顔を下げて、早織の大きくはないが形のいいふくらみを吸った。快感が腰から全身に拡がって、早織はまた意識を失いかけた。
 由起が手の動きを止めると、早織は無意識に腰を押し付けて快楽を催促した。由起は、その手をさらに引いて、早織を見つめた。目を閉じていた早織が、動きを止めた由起を不信がるように見た。かすれる声で、由起は、さおちゃんをちょうだい、と言った。その意味を早織が受け止める前に、由起は再び右手を早織の股間にあて、敏感な箇所をすばやくこすり、湿り気を指先に浸して、早織のまだ誰も受け入れていない場所へゆっくりと差し入れた。
 由起の指が自分の中に入ろうとしていることに気づき、早織は身をすくませた。怖い、と思う間もなく、熱さが体に刻まれる。痛いというより、熱かった。由起の指、と思った瞬間、腰に電流が走ったようになり、早織は由起に抱きついた。由起、由起、由起、と何度も名前を呼んだ。由起の指がゆっくりと動く。始めに感じた痛みはどこかに行ってしまい、早織は由起の熱さだけを感じていた。
 早織から離れた指を、由起は早織の顔の前に持ってきた。早織が顔をそむける。由起は口の両角を上げ、自分の指を舐めようとした。すると早織が両手で由起の指をつかんだ。困ったような顔をしている由起を睨むと、早織がその指を口に含んだ。自分の跡を消そうとするかのように、あるいは自分の初めてを奪ったものを讃えるように、早織が由起の指を舐める。その様子に由起は陶然とした。早織に舐めさせている指はそのままに、むしろ早織の口の中を指で撫でまわしながら、反対の手で由起はまだ着けたままだった腰の下着を脱ぎ捨てた。早織の口から指を引き離し、今度は早織の手を取ると、それを自分の股間に導いた。指を1本だけ伸ばさせて、由起は自分のぬかるんでいる場所に押し込んだ。痛くない、と由起は思った。これは痛みじゃない。
 自分の指を覆う由起の肉の熱と感触に早織は動くことができなかった。由起は早織の首に抱きつき、はっはっ、と短い呼吸を繰り返す。由起と自分の汗が、ふたりの胸のふくらみをすべらせている。痛い? と早織が囁くと、由起は小さく首を振った。早織が少し由起の中で指を動かす。由起の首を振る仕草が大きくなる。ごめん、痛かったんだ、と早織が指を抜こうとすると、由起は腰を押し付けてきた。やめないで、と由起が言う。痛いんでしょ、と早織が確認すると、そうじゃない、そうじゃないの、と由起があえぎながら訴える。さおちゃんを、私の中で感じていたいの。そういうと由起の体が震えて、早織の指を締め付けた。あ、と由起が声を漏らし、大きく息を吸って、笛のような細い吐息を早織に吹きかけた。
 愛の交歓が終わり、ふたりはひとつのベッドで、裸のまま毛布にくるまって横になった。何かを話す間もなく、ふたりはほとんど同時に深い眠りに入った。早織が夜中に目が覚めて、枕元に埋め込まれている時計を見ると午前二時だった。由起を起こさないようにそっとベッドから降り、床に散らばっていたバスローブのひとつを体にかけて早織はバスルームに入った。バスルームの灯りが目に強烈に当たる。トイレで用を足して、紙を使うとき、ふと気になって早織は自分の股間を覗いた。今まで自分ではまじまじと見たことはない。由起に触られたところは、どうなってるだろう。そっと自分の指を当てると、冷たさに下半身がびくっと震えた。別に、変わった感じはしない。なんとなく安心して、バスルームを出た。電気を消そうとしたら、漏れた灯りで、ベッドの上に由起が起きているのが見えた。起こしちゃった? ごめんね。トイレ行ってた。早織のことばに、由起は半分眠っているような声で、私も行ってくる、とって裸でベッドから出た。早織がもうひとつのバスローブを肩にかけると、ありがと、といって由起がバスルームに入った。扉がしまると、部屋の中はまた真っ暗に近くなる。早織はバスローブを着たまま、さっきまで由起といっしょに寝ていたほうではないベッドにもぐり込んだ。由起が出てきて、バスルームの灯りを消した。さおちゃん、そっちで寝るの、と、寝乱れたほうのベッドに由起が腰を下ろした。だって、せっかくツインなのに、両方使わないともったいないじゃない、と早織は深く考えずに言った。そっか、と由起が少し寂しそうにいい、そうだね、と今度は元気な声でいうと、早織のくるまっている毛布にもぐり込んできた。じゃ、今度はこっちで寝よう。
 由起は早織の背中に体をすり寄せた。腕を早織の前に回す。ガウンの襟から手をすべらせようとすると、早織がその手を掴んだ。眠くないの。目が覚めちゃった。由起はまた手を動かす。早織はもう抵抗しなかった。早織の胸を揉みながら、由起は早織の耳元で、さおちゃん、私の胸ばっかり見てたでしょ、と囁いた。早織が何も応えないので、由起は早織の乳首をつまんだ。あ、と早織が声を立てる。こら、正直に言え。でないと。早織が由起の手を上から抑えて動きを止めようとした。見てたよ、見てました。由起の胸。ずっと触りたいとおもってました。由起は早織の乳首をいじるのをやめて、両手で胸全体を揉み始めた。早織が甘い声を立てる。私、さおちゃんのおっぱい、好き。おっぱい、という言葉に早織が反応した。形きれいだし、生で見るとけっこう大きいんだ。由起はバスローブの上から早織の背中に自分の胸を押し付けた。今は私のほうがバストあるけど、そのうちさおちゃんに抜かれるかな。そういって胸を押し当てながら早織のふくらみを揉んでいると、早織の体を通して自分を愛撫しているような気がしてくる。
 由起に促されて、早織はベッドにうつぶせになった。毛布をはいで、由起が自分のバスローブも肩から脱がせる。背中をさすっていた由起の熱い息を背中に感じ、そのまま舐められると、早織は大きな声を出しそうになり、こぶしを口に当てた。由起が早織の胸の下に手をもぐらせ、シーツにこすれている乳首を容赦なくいらう。その裏側にあたる肩甲骨のくぼみを同時に口で吸い、早織は乳首から背中に快楽の矢が貫くのを感じた。バスローブが完全にはぎとられ、自分も再び裸になったゆきが全身を早織に預ける。お尻に由起の下腹部の毛が当たるのを感じて、早織は中学生のときに覗いた由起の脇の下の発毛を思い出した。たまらずに身を反転させて、由起の体を正面で受け止めた。胸と胸が合わさり、腿にお互いの下半身の付け根がこすられる。ぎこちない動きだったが、早織は由起を、由起は早織をもっと感じさせるように体を揺らした。早織が由起の喉を吸う。頸動脈を流れる血のリズムに早織は我を忘れる。このまま噛み切ってしまいたい。由起が感じた衝動に早織も襲われ、その獣じみた欲求を振り払おうと、由起の豊かな胸に指を食いこませる。由起が悲鳴を上げた。その口を早織が自分の口で塞ぐ。大好きな由起、大切な由起をめちゃくちゃにしたくなる。
 それまでの早織の動きと明らかにちがう力に由起は気づいた。遠慮がちの、もろい紙細工に触れるような指使いが、直接的で、目的をもったものに変わり、由起の体を這いまわる。胸を揉みしだく力は由起が痛みを訴えるぎりぎりの線をさぐり、肩や首やおなかに吸いつく唇の強さは、肌に傷を残すことをためらうことがなかった。その荒々しさにもてあそばれている感覚に由起はどんどんなじんでいった。止めてと自分がいえば、早織は電池が切れた人形のように立ち止まるだろう。やさしくしてほしいと頼めば、雛を両手でくるむようにやさしく愛でてくれるだろう。でも、今は。初めての今夜だけは。由起は早織に思うさまに自分を愛させたかった。中学のときから、人に言えない同性への指向をすべて自分に向けていた、友だちで親友で恋人の思いを、余すところなくかなえさせてやりたかった。そのためなら、自分の体はどうなってもいい。早織になら、今晩この場で殺されたって、私はきっと満足して死ぬ。そこから由起の体の中に入り込もうというように、執拗に由起のへそを舐めていた早織が、業を煮やしたように頭を下げ、由起の下腹部に顔をうずめた。早織の息を敏感な箇所に感じて由起は悲鳴を上げそうになり、必死でこらえた。同時に鋭い感覚が早織の舌に触れている場所からじわり、と拡がる。由起は無我夢中で両手を伸ばし、ベッドのすみにあった枕をつかむと自分の顔に押し付け、思い切り叫んだ。
 獣のような由起の唸り声が聞こえ、早織は由起の股から顔を上げた。由起が枕を顔に押し当て、うめいている。はっとなり、自分が今していたことに今さら気づいて早織は由起の体に目を落とした。暗がりの中で光っている由起の秘部から、酸っぱいような匂いが立ち上っている。早織はくらっとなった頭を二度三度振り、体重をかけないように由起の体におおいかぶさった。由起が枕を放し息を整える。早織はそっと由起にキスをし、それから指を今まで自分の舌でころがしていたところに当てた。由起がピクリと体を震わせる。早織が指を動かすと、由起は鼻で息をしたあと、目を閉じて、早織の頭を抱いた。次第に早くなる指の動きに合わせて、由起の呼吸も早くなる。曲げたり伸ばしたりする由起の膝に早織は自分の下腹部を押し当てた。由起の体に力が入り、かくん、かくんとけいれんが走り、早織もぴん、と伸ばされた由起の膝を挟む腿を震わせた。
 ふたりは朝になるまでお互いの体を慈しんだ。疲れは感じず、快いしびれは何度も形を変えて訪れた。同じ愛撫を何度繰り返しても飽きることはなかった。精を放てば終わる雄の性とは異なる、終わりのない愛の交歓は、女同士だから許されるということをふたりは知らないまま、相手を抱き続けた。朝になり、遮光カーテンのすきまから漏れる光に気づいてカーテンを明け、光の中でお互いの裸身を認めた時、ふたりは新しい欲望にとらわれて、舌と指に加え、今度は目で相手の肉体を味わった。とりわけ体から湧き上がる感覚に耐えきれず瞼をきつく閉じ食いしばった歯を唇からのぞかせる表情が刺激的で、ふたりはお互いの体のどこを責めるとどんな顔になるのかを急速に学んでいった。何十回、何百回めかもわからなくなったキスを交わした時、ふたりは目を閉じても相手の表情をありありと瞼の裏に浮かべることができるようになっていた。舌を離して薄目を開けると、相手も同じように目を開いてこちらを見つめている。瞼の裏の画像と寸分も違わない、長いまつげ、揺れる黒い瞳とうすく青みがかった白目があった。ひとつだけ目を閉じていたときはわからなかったのは、涙だった。舌でそれをすくいとると、相手も同じようにまなじりを吸った。そしてまた唇を合わせ、お互いの涙と唾液を二枚の舌で混ぜ合わせ、飲み合う。相手と自分がひとつになるように。見えない絆を形にしようとするように、ふたりはお互いの肌をきつく合わせた。セットしていた目覚ましが鳴り、朝食の時間が来たことを知らせるまで、ふたりはお互いの体から自分を離せずにいた。
 裸に慣れてしまうと、下着や洋服で体を覆っていくところを見られるのがかえって気恥ずかしく、ひとりがバスルームを使っている間にもうひとりが着替えをすませた。身支度を整えて、お互いに確認する。夜中からずっと起きていたが十八歳のふたりの顔には少しの疲れも現れてはいない。夜明けのコーヒーを飲みに行きますか、とひとりがいい、ばか、ともうひとりが笑う。
 部屋を出て、ホテルの廊下をふたりは手をつないで歩いた。床の絨毯が、少しだけヒールの高い靴音を消したが、ふたりの耳には自分たちの足音が高らかに聞こえた。ホテルの従業員と出会い、ふたりは手を放し、すれちがったあとまた指をからめた。女同士で、堂々とつきあっているとは言えないけれど、恋人が自分を好きだと言ってくれて、思う存分愛させてくれるなら、今はそれで十分幸せだ。いつか、自分たちのような関係をみんなに知らせて、認めてもらうえるような時が来るかもしれない。その時が来るまで、いや、そんな時代が来なかったとしても、自分たちは愛し合って生きる。お互いのすばらしさを、お互いに愛でていく。人里離れた山奥に咲く二株の花のように。


<スカウト>



 あ、ねえねえ彼女たち、ちょっといいかな?きみら、とってもチャーミングだね。もしかして、どこかのモデル事務所と契約してる? え、してない? ほんとに。だったらさ、ちょっと話聞いてくれないかな。ぼく、こういうもので、芸能事務所のスカウトなんだけど。え、あやしい?うん、まあ、そう言われたら、帰す言葉がないんだけど、この名刺渡すからさ、うちに帰ってからでいいんで、事務所に電話してくれないかな。疑うようだったら、事務所の名前で電話番号調べてもらっていいから。うちの事務所、大手だからね。けっこう人には知られているんで、うその電話番号とか使えないから。え、興味ない? うそだろ。きみたちみたいな年頃の子なら、あこがれるでしょう、芸能界。何、こっちの子は大学行くから。で、きみは看護学校。ええ、もったいないよ。大学生の子はともかく、きみのような素敵な子が看護婦さんになるなんて。いや、まあ、そういうのもあると思う。美人の看護婦さんは病人のあこがれだからね。いや、そういうこといってるんじゃなくてさ、もっと自分の可能性にかけてみないか、って話。人気出ると思うよ。何、やっぱり興味ない。そうか、まあ、いやがる子をむりやり引っ張っていってもね、水場に馬を連れて行けても、水を飲ませることはできない、ってね。昔から。あ、誰が馬だって? いや、物のたとえだよ。きみらを馬なんて、そんな失礼なこと。怒らせたらごめんね。謝ります。わかった、じゃあさ、事務所はいいからさ、ちょっとおれとつきあってよ。そう、デート。せっかく知り合ったんだから、ちょっと遊ぼう。もちろん、ふたりいっしょでいいよ。もし数が合わないっていうなら、だれかいけてる奴を呼ぶから。きみら、彼氏とかいないんでしょ。だから女の子同士で遊んでるだよね。え。何? 自分たちはつきあってる? ちょっと、何言ってんの。きみらみたいな美少女がレズビアンなんて、ありえないでしょ。あれは、言っちゃ悪いけど、男に相手にされないかわいそうな女の子同士で傷をなめ合っているんでしょ。え。何、ふざけるなって、怒ったの? きみらのことをいったわけじゃないよ。きみらみたいに、男なんかそれこそよりどりみどりの子がレズビアンって、そんなこと言ってナンパから逃れようってこと? 見え見えだよ……え、なに、何してんの。今、キスした?ちょっと待ってよ。え、おいおい、そんなやらしいキスしちゃだめでしょ。ここ天下の往来だよ。ちょっと、そんな怖い目で見るなよ。まいったな。ほんとにレズなのか。あ、おい、ちょっと。きみら、待ってよ。せめて名刺持ってってよ。あ、行っちゃった。笑ってやがる。からかったんだな。でも、あれだけかわいい子たちだったら、お互いに惚れるのも、わからないでもない、かな。考えてみれば、男を好きになる気持ちのほうが、ぜんぜん想像できないもんな。俺が男だからかもしれないけど。

<了>


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