百合知らず
昭和五十×年 さおり
1 恋は脇の下から
ビルの二階に上がって、『タイタン』の自動ドアの前に立つ。
ドアが開くと、キャンディーズの『春一番』が聞こえた。その音楽に合わせて首を左右に降っているゆきを見つけた。
窓辺の席で、テーブルの上には本を開いている。音楽を聞きながら本が読めるのは特技だと思うが、そう思うのはあたしくらいか。
注文したのはコーヒー。それもいつも通り。今は約束の時間の五分前で、あたしはほぼ時間通りだが、ゆきは必ずあたしより早く来ている。
人を待たせるの、落ち着かないんだよね。それに、本読めるから、いいの。
ゆきがそういうから、あたしは時間ぴったりに来るようにこころがけている。こうやって待ち合わせ場所に来て、彼女がいてくれるのを見つけるとほっとする。
たぶん、自分が着いた時に彼女が何かの理由で遅れていて姿が見えなかったら、あたしは不安でいてもたってもいられないにちがいない。事故にあったとか、誰かにからまれたとか。あるいは、あたしと会いたくなくなったとか。
「いらっしゃいませ。お待ち合わせですか」
入り口で突っ立ったままのあたしに、ウエイトレスさんに声をかけてきた。
その声にゆきが反応して顔を上げ、あたしに気がついて手を上げた。
「さおちゃん!こっち、こっち」
あたしは笑顔をつくって席に近づいた。今日はゆきに会うのに緊張する理由があった。
「やっと、さおちゃんと会えた」ゆきが笑った。「一か月ぶり?」
「そうだね。電話ばっかりで」ずっと顔が見たかった、と続けたかった言葉を飲み込んだ。ここは喫茶店で、ほかのお客さんがいる。
あたしはウエイトレスさんにアイスティーを頼んだ。
高校に入学してからゆきとは学校が別々になり、通学路も重ならないので、会おうとすると放課後か休日しかない。
新学期はお互い忙しくて、ゴールデンウイークが始まる今日まで、顔を見ることができなかった。それでも、学校のようすとか、友だちになれそうな子はいるかとか、部活動はどうする、なんて話は毎晩のように電話で話していたから、久しぶりという感じはあまりない。
ストローをくわえたゆきの顔を、正面から見る。
会えなかったひと月間で、ゆきは高校生の風格を身に着けていた。中学のときも大人っぽい子だった(本人は否定しているが)が、制服を着ていなくても、普通に高校生らしい。というか、高校に入学したばかりには見えない。
春用のセーターを盛り上げている胸だって、大人の女の人なみだ。
「何見てんの」
ゆきがにやにや笑った。
あたしが彼女の胸に視線を向けると、必ずゆきが突っ込んでくる。
「別に。ゆきさあ、高校入ったら、ちょっと色気づいた? なんかきれいになってる気がする」
「女子高で色気づくわけないでしょ」
「お化粧とか」
「うち禁止。でも、眉毛くらいはみんな整えているから、私もちょっとだけ」
「そっか。K女子高、校則厳しそうだもんね」
「そっちは?共学だから、女子はおしゃれに命かけたりするんじゃない」
「そうだね。校則はゆるゆるだから、パーマかけてきたり、リップ持ってきたり。けっこういる。男子はリーゼントにしてる先輩もいるし」
「ええ、怖そう」
「一年生女子には手を出さないと思うけど。目立たないにこしたことはないとは思う」
「さおちゃん、もてるから。気を付けないと」
そんなことをさりげなくいうから、あたしは気が抜けない。
「帽子、暑くない?」
あ、やっぱり指摘された。
かぶってきた赤い毛糸の帽子を右手でおさえた。
「さおちゃんがそういう帽子かぶるの、珍しいよね。春休みでもみたことなかったよ」
「ちょっとね。気分転換」
ふーん、そっか。そういって関心をなくしたようにゆきは飲み物のストローをくわえた。
よかった、ごまかせた。そう安心したら、いきなりゆきが手を伸ばしてあたしの帽子を取り上げた。
「ちょっと、何するの!」
「えー、どうしたの、その頭」
見られた。
あたしは隠すように頭に手を当てた。短い毛先がさわさわと手のひらにあたる。恥ずかしくて消えてしまいたくなった。
「部活で、決まりだからって先輩にいわれて」
あたしが入ったU高のバレーボール部は、県内でも強豪のひとつだった。
練習もきびしいが規則もきつく、ゆるゆるの校則に逆らうように、厳格な部の内規がある。
この、男の子のような刈り上げた短髪もそのひとつだった。
前髪は垂れ下がらないように短くする、両耳はしっかり出す。後ろ髪は全体に短くするか、すそを刈り上げる。どう見たって、いまどきの女子高校生のヘアスタイルではない。
入部前の見学に来た新入生の半分以上はこの規則を聞いて入部をやめた。
あたしもどうしようかと思ったが、他の中学でバレーをやっていた子が同じクラスにいて、中学時代に顔を見知っていた縁でいっしょに見学に行き、どうしても入ろうと誘われて断れなくなった。
中学のバレーがほとんどお遊びみたいなものだったので、強豪校で本格的にやってみたいという気持ちもあった。
もしかしたら髪を切ってもそれほどみっともなくならずにすむかもしれないと思って、入部届を出した日に、そのクラスの子とバレー部お勧めの美容院に行った。
U高のバレー部に入るんです、とクラスの子がうれしそうにいうと、美容師さんが、それならこのくらい切らないと、と言ってどんどん短くしていった。仕上がった自分の頭を見たその子は半分べそをかいていた。
自分の番になって、やっぱり止めますとはいえず、あたしも髪を切ってもらった。もともとショートで通してきたので、それほど印象は変わらないだろうと期待したが、結果は見事に男子化していた。
ここまでやったら、もう後戻りはできない。入ってしまえばみんな同じような頭なので自分のことは気にならない。
ただ、制服が全然似合わなくなってしまった。
「男子がふざけてセーラー服着ているみたいなんだよね」
あたしが事情をひととおり説明して、最後にそういうとゆきが爆笑した。
「笑うよね。だから部員はみんなジャージで通学している。朝練もあるし、帰りも着替えずにそのまま帰れば、制服なくても困らないから」
ゆきは笑って、取り上げた帽子を返してくれた。
私がそれをかぶると、笑ってごめん、といってゆきは手を伸ばして私の帽子の上をぽんぽん、と叩いた。
「でも、似合ってる。ほんと。宝塚みたい」
そうされるとあたしはもう何も言えない。ゆきに似合っていると言ってもらえれば、怖いものはもうない。
「これいうと、また自慢してるって思われるかもしれないけど」
あたしは取りすますように体を起こした。宝塚、といわれたので、その気になったのかもしれない。
「入学したら、何人かの男子につきあってくれっていわれて。ちょっと困ってたんだよね」
「他の高校につきあっている人がいるっていうんじゃなかった?」
「それが、うちの部、男女交際も禁止なんだ」
「へえ、徹底しているのね」
「だからつきあえません、って断るんだけど、そもそも男にちやほやされてると部の先輩の覚えもよくないし」
「で、どうしたの」
「それが、この頭にしたら、ぴたっと言い寄って来なくなった」
ゆきが沈黙し、盛大に吹き出した。
「なにそれ、ひどい……でも、おかしすぎ」
「おかげで、気楽にはなったよ」
「もてなくて、物足りないんじゃないの?」
「そういうこというんだ」
あたしは少しすねたふりをした。
「ごめんね。でも複雑。私は、さおちゃんがもてるのは心配。でも、もてなくなるのもなんか残念なんだよね。みんなこの子にきゃーきゃー言いなさいって、たきつけたくなる」
「なに、そのわがまま。あたしはどうすればいいのさ」
「そうだね……うん、さおちゃん、そのままでいいよ」
ゆきがぐっと顔を近づけてくる。
だめだよ、ゆき、ここは喫茶店だよ。あたしはウエイトレスさんのいる店の奥をちらっと見た。
あたしの顔のすぐ近くでゆきが小さい声でささやいた。
さおちゃんの魅力は、私だけが知ってればいい。
高校の部活動は想像以上にハードだった。練習は毎日夜まで続き、朝練もある。
中学までやれていた家事が、特に晩ごはんの支度ができなくなった。
母が生きていればあたしも他の子と同じように、部活動でもなんでも自由にやれたかもしれない。髪も切ったし、バレーは意地でも続けたかったが、家族の中での自分の役割を放り出すこともできない。
部活動の継続をあきらめかけたとき、兄が夕食の支度をやると言い出した。高校を出て、父の青果業を手伝いながら、二部の大学に通っている兄は、毎日扱っている野菜をどうやっておいしく食べられるか考えているうちに、自分で料理をしてみたくなったのだという。
毎日自分がやるのが無理でも、父さんも多少のことはできるから、家のことは気にするなと兄は薄い胸を叩いてみせた。
青果業、要するに八百屋だが、うちは店頭で野菜を並べてお客さんに来てもらう、というスタイルをずいぶん前に止めていた。そういうやり方ではスーパーにかなわない。
父は飲食店と契約して、野菜などの食材を直接配送している。
朝、仕入れた野菜を注文に応じて仕分けし、飲食店に届ける。兄も午前中の配送を受け持ち、午後から夕方にかけての時間で夕食の準備をしてから、大学の夜の授業に出かける。
あたしが部活動を終えて帰ってくると、兄の用意した料理を父が仕上げて出してくれる。時にはうどんをゆでるだけだったり、父たちの昼食の残りを温めるだけだったり、ということもあったが、そんなのはどの家でも普通にあるだろう。
疲れて帰ってきてすぐにごはんが食べられるだけで、あたしは十分楽をさせてもらっていた。
朝ごはんはあたしが受け持った。
市場に仕入れに行く父の時間に合わせて、我が家の朝は早い。早起きには慣れていたから、朝食の準備は苦にならない。
ついでに、弁当も用意した。クラスの女子は、ほんのちょっとしか量のないかわいいお弁当を持ってくるか、購買でパンを買うことが多いが、あたしたち運動部女子はそんなものでは足りない。量重視の弁当は、実はあんまり手間がかからない。一週間のメニューを決めて、見た目は考えず、たっぶりの白米と味の濃いおかずをぎゅっとつめる。あたしのパワーの源だ。ついでに父と兄にもつくるが、分量は二人とも私の半分くらいで十分だという。
部活の忙しさのあまり、ゆきと会う時間がぐっと減った。というより、全然会えなくなった。なにしろ放課後は遅くまで練習、土日も練習か試合がびっしり。男女交際どころではなく、友だちと遊ぶ時間もまったくとれない。
部活が終わって家に帰り、お風呂に入りながら洗濯機を回し、夕飯を食べて最低限の宿題をやって、さあ、ゆきに電話をしようと思っても猛烈な眠気がおそってくる。
一度、ゆきと電話で話しながら寝てしまい、夜中に目が覚めたらさすがに電話は切れていたことがあった。
ゆきがあたしの体を心配して、そんなに無理して電話つきあわなくていいよ、と言ってくれた。ゆきの声は聞きたかったが、ふだんの夜の電話は控えることにした。
電話で話さなくてもお互いの言いたいことが伝えられるような便利な世の中になるのは、ずいぶんと先の話だ。
学校の定期試験の1週間前だけ、部活動が休みとなる。
あたしは試験勉強などそっちのけで、ゆきと会おうと思った。
ところがゆきの学校とは試験の日程がずれていて、あたしの試験前休みの最初の日が、ゆきの試験の三日前。
電話をかけてそれを知り、あたしはゆきとのデートをあきらめた。
なにしろ、ゆきの通うK女子高は県内でもトップクラスの進学校だ。そこでゆきの成績がどのくらいなのか、よく知らなかったが、試験三日前にのんきにあたしと遊んでいていいわけがない。
会おうよ、私は会いたい、とゆきは言ってくれたが、あたしから、日延べを提案した。
「ゆきの試験が終わった日なら、あたしもまだ部活休みだから、その日に会おう」
「だって、さおちゃんはそれから試験でしょう。大丈夫なの」
「だからさ、ゆきに勉強教わろうと思って。ゆきんちに行ってもいいかな」
「いいけど。でも、勉強になるのかな。こっちは終わって解放されているし。さおちゃんのやる気、そいじゃわないかな」
「だいじょうぶ。あたしだってこれから勉強するし。わかんないところ溜めておくから、しっかり教えてよ」
そういって、あたしは電話を切った。
よし、楽しみもできたし、気持ちを切り替えて勉強しよう。
少しだけ伸びてきた髪の毛を両手でわしわしとかきむしって気合を入れた。つもりだった。
でもあたしという人間はそれほどしっかりしていなかった。
部活から解放されて家に帰ると、試験あるなら勉強しろといって家事をそのまま兄が引き受けてくれたのをいいことに、あたしはだらけた。
高校に入る前にゆきから借りたままになっていたマンガを読んだり、兄が買ってきたレコードを聞いたり、部活でやれなかった高校生らしい楽しみ(とあたしが思っていた)におぼれてしまった。
勉強を忘れていたわけではない。あたしだって赤点なんか取りたくない。
鬼のようにしごくバレー部でも、試験で赤点を取ると補習に出るため練習を休まされる。わざと赤点をとって部活をさぼる、という人がいるのかどうかわからないが、そんなことするくらいなら部活をやめればいい。
あたしは高校生としての義務をきちんと果たすつもりでいた。そうでないと、ゆきに顔向けできないから。
そう思っていても、勉強を始める前に、少しだけ、と思って手に取ったマンガがいけなかった。
男として育てられた少女と、幼馴染の青年の恋。
あたしは、ふたりにゆきと自分を重ねた。
男同士の友情をはぐくんていたと信じていた相手に、自分の思慕を知られてしまう。同性の友と思っていた相手からの告白への戸惑いと、それを受け入れたのちに知る、さらなる事実。
マンガで描かれる男と女はみな繊細で美しく、性の区別はあいまいで、だからあたしは自分やゆきを性別に関係なく登場人物に重ねた。
出会いがあり、悩みがあり、それでも結ばれ、そして別れ。あたしは自分の物語として読んだ。
現実の自分たちが取るに足らない高校生で、マンガの世界の住人のような貴族でないとしても、人への思いを持つ存在であることは変わらない。
そのマンガは誰もが認める名作だと思う。
でも、もし自分がゆきと中学のときに出会っていなかったら、今のような気持ちでこのマンガを読んだだろうか。それとも、恋を知らない人が読んでも、このマンガの面白さは伝わるものなのか。
あたしがゆきに抱く感情は、恋なのか。
もう何回も自分に問いかけた。
同じ女に向ける感情を恋といっていいのか、友情とは何がちがうのか。
子供のころから、女の子の友だちは普通にいた。いっしょに遊んで楽しく、別れるときはさみしく、けんかすることはあっても、仲直りすればうれしかった。小学校、中学校では別の子と仲良くなったが、その子たちに特別な気持ちを持ったことはなかったと思う。
ゆきだけが特別だった。
クラスもちがう、部活もちがう。小学校は同じだったけれど、たぶん話をしたこともない。
中学でふたつ隣のクラスで、大人びた子がいるな、と思ってさりげなく名前を調べた。それからなんとなく目で追いかけるようになり、そうすると目が会うこともあって、自分も見られているという気持ちがくすぐったく感じた。
そして、あの夏。
廊下を歩いていて、戸が開いている教室に、何かを見た気がして顔を向けた。
女の子が、背伸びして黒板を拭いている。
あ、あの子だ、と思った。なんで自分のクラスでもないこの教室にいるんだろう。
あとで、ゆきからあの日は園芸部の会議をしていた、と聞いたが、そのときは事情を何も知らないまま、それ以上不審にも思わず、意外な場所で、気にかけていた子を見かけてなんとなく得した気がした。
女の子が右手を伸ばして黒板の上のほうを拭こうとした。
そのとき、半袖の、衣替えをしたばかりの夏服の白いブラウスの袖から、黒いものが見えた。
わき、げ?
そう思った瞬間、心臓がどくん、と鳴り、あたしは動けなくなった。
なんで?なんで?なんで?
なんで、そんなの見せるの。なんでそんなの生やしてるの。
彼女はいちど黒板拭きを下し、もういちど背伸びして手を上げた。
また、黒いものが見えた。そしてさらに、その下のブラジャーも。
そのとき、彼女がはっとこちらを向いた。
ばちん、と音を立てたように目が合い、あたしは何もいえず、まるでこわれた人形のようにぎりぎりと音を立て(実際には音はしなかったが)横を向いて歩き出した。
頭の中に、今しがた見たものと、彼女の顔が浮かび、どんどん大きくなり、私は耐えられなくなってトイレに飛び込んだ。
胸が高鳴り、のどの奥から何かの塊がつきあげてきて、吐くかと思って便器にかがんだが何も出てこない。
熱い塊は、胸の奥からおなかのほうに下がってくる。
あたしは、制服のスカートの上から、その塊のある部分を抑えつけた。
びくん、と体が震えて、あたしは一瞬気を失ったと思う。まぶたの裏が光り、周囲の音は何も聞こえなくなった。
やがてトイレの個室の外の音が聞こえるようになり、あたしは、大きく息を吸った。胸の奥はまだちりちりとうずいていたが、さっきまでの切迫した塊はどこかへ行ったようだった。
水を流して個室の外に出た。そこに彼女がいた。何かを考える前に、あたしは話しかけていた。
「あのさ、あんたわきの下、そらないの」
なんであんな声のかけ方したのかな、とあれから何度も思った。
最悪の接近遭遇だ。
あたしが女でよかった。あれを男がやったら、まずまちがいなく変質者だ。まあ、自分も似たようなものかもしれないけど。あのあとの、ゆきの顔も、かわいそうで、いじらしくて、それですごく、いやらしくて。
いやらしいのは、あたしか。
昔のことを思い出しているうちに、あたしは勉強どころではなくなった。
いますぐに、ゆきの声が聞きたい。電話しようか。でもゆきは試験直前だ。だめだ、絶対。電話はだめ。
マンガを放り出し、ベッドから起き上がってハンガーにかけてある制服のスカートから定期入れを取り出した。部活が休みのあいだは、制服で通学しなければならない。
定期入れから写真を抜いた。
あたしとゆきがふたりで写っている。焼き増しして、お互いに一枚ずつ持っている。見えないようにしまってあるが、誰かに定期入れの中身を見られたら、今会えないけど、仲良かった友だち、というつもりでいる。
店で果物を包むときに使う透明のビニールカバーを使って、写真用のケースを作った。
汚さないようにビニールの中にしまった写真を目の前に掲げて、さっきまで読んでいたマンガの登場人物のセリフを言ってみる。
「あなたと今夜ともにいられるのなら、明日この身が消えてもかまわない」
ピンと来ない。
ゆきならきっと、「明日からいっしょにいられるなら、今夜は別々で、試験勉強しましょう」とか言いそうだ。
そう思ったら、少しだけ勉強のやる気が出た。ゆきはきっと今頃猛勉強中だろう。自分も、その半分、いやせめて四分の一くらいはがんばろう。
あたしは写真のゆきにビニールケースの上から軽く唇を押し当て、机に向かった。
2 あの子の部屋からポスターが消えた
「いらっしゃい。待ってたよ」
「ほんとにごめんね、試験終わったばかりなのに」
ゆきの家に来るのは春休み以来だ。
あのころは、ほとんど毎日、お互いの家に遊びにいっていた。
あたしたちがいっしょに過ごすようになったのは中学校卒業式の日からだったから、お互いのことを知るために、どれだけ話しても時間が足りなかった。交代にお互いの家を訪れ、午前中から夕方までいっしょに過ごした。
高校入学まで、あたしは家の夕飯の支度があり、ゆきもおばさんが仕事から帰るまで小学生の弟をひとりにしておけないので、あたしたちは日の暮れる前に別れた。
翌日になればまた会えるという気安さを感じながら。
今となっては、夢みたいな話だ。
今日はゆきの家に泊めてもらうことになっていた。
勉強する時間をできるだけとりたいし、夜家に帰ると遅くなるから、というのは建前だった。
試験が終わればまた部活が忙しくなり、次にゆっくり会えるのがいつになるかわからないから、少しでも長くいっしょにいたい。
あたしのわがままに、ゆきがつきあってくれた。
家には、ゆきの弟くんがいて、リビングでマンガを熱心に読んでいた。
こんにちは、というと、うん、といって頭を下げる。
愛想がないが、別に怒っているわけではないらしい。姉の友だちの女子高生とどう接したらいいか、わからないのだろう。こちらも同じだが。
ゆきの部屋に入ったのは二か月ぶりだったが、雰囲気が少し変わっているような気がした。
壁にかかっている制服のせいだろうか。
「あれ、ポスター」
南沙織のポスターがなくなっている。あんなにお気に入りだったのに。
「うん、片づけたの。高校入ったら、子供っぽいかなって思って」
あたしの部屋にはポスターはべたべた張ってある。南沙織のもあるし、最近聞くようになった洋楽のミュージシャンのポスターも兄からもらって張り足した。
ああいうのは、子供っぽいのか。
確かに、余計な飾り物が少ないゆきの部屋は落ち着いていた。
「さあ、時間もったいないから試験勉強始めよう。明日の科目は何?」
「いきなり数学と古典。あと日本史と生物だったかな」
「じゃあその順番でやろうか。一応聞くけど、まさかまったく手をつけていないってこと、ないよね?」
「まあ、そこそこ。でも覚えたかといわれると自信ない。わかんないところもけっこうあるし」
「わからないところがそのままだと、どんどん理解できないところふえていくから、そこからつぶしていこう」
ゆきはいきなり家庭教師モードになり、あたしの試験勉強を見始めた。
あたしは久しぶりにふたりきりで会って話ができるので、少しおしゃべりしたかったが、ゆきは容赦ない。
でも、数式も古典の昔の言葉も、ゆきの声で聞くと耳に快くて、あたしは素直に勉強に取り組んだ。
ちょっとつっかかって、顔を上げると、すぐ目の前にゆきがいて、「どこ?」とあたしの手元をのぞきこむ。
そのたびにゆきの髪からふわっと甘い香りがして、ともすれば数式のことなんかどうでもよくなりそうになるが、そこをぐっとこらえて、ゆきの説明を理解しようとした。自分のために一生懸命に教えてくれるゆきの気持ちに少しでもこたえたい。
殊勝にもそんなことを考えていたら、あっというまに時間がたち、仕事から帰ってきたゆきのお母さんが食事を呼びにきた。
「あたし、こんなに集中して勉強したのはじめて」
問題を解いたノートと、ゆきが教えてくれた『重要項目』を書き込んだ暗記用のメモを見ながら、あたしは胸を張った。
「さおちゃん、やっぱり運動やってるから、集中するとすごいね。私なんか、だらだらやっては机から離れたり、マンガに手伸ばしたりするけど」
ゆきの前で恥ずかしいことできないから。
「あたしだってやればできるのよ。あーあ、もうちょっと早くゆきに勉強見てもらえれば、あたしもK女子行けたかも」
「さおちゃんの面倒見てたら、私が受からなかったと思う」
「それはそうか。あたしもこんな勉強毎日やったら、たぶんどこかで倒れるかな」
『倒れる』で、ゆきが中学三年の夏に神社で突然意識を失ったことを思い出した。
「ゆきは、体だいじょうぶ? また気を失うなんてことない?」
「ありがとう。定期的にお医者さん行ってるけど、問題ないって。声も出るようになったし」
倒れたのち、ゆきは声を出せなくなった。原因がわからず、精神的なものだろうと診断され、中学三年生の後半は言葉を出せない不自由な生活を強いられた。
それでも勉強はがんばり、県内でもトップクラスの進学校に合格した。勉強での集中力でいえば、あたしなんかゆきの足元にも及ばない。
中学卒業後、ゆきの声は少しずつ出るようになり、今ではまったく問題はない。発声の訓練をかねて、高校では合唱部に入ったといっていた。
勉強を教えてくれる声もいいが、ゆきの歌っている声も聞いてみたい。
夕食は、ゆき、ゆきのお母さん、弟の康彦くんといっしょに食べた。
「さおりちゃん、お兄さん元気? 大学行ってるのよね」とゆきのお母さんが尋ねた。
「元気です。大学は二部なんで、昼間は父の仕事手伝ってます」
「えらいわねえ。ゆきに聞いたけど、おさんどんやってくれているんだって?」
「はい。あたしが部活忙しくて夜やれないんで。料理好きみたいで、最近は将来そっちのほうに行こうかなんていってます」
「さおりちゃんも、お弁当つくってるんでしょ」
「自分の食べたいものを、食べたいだけです」
「えらいわねえ」
「どうせ私は何もやってませんよ」とゆきがいった。「さおちゃんみたいに料理得意じゃないし」
まずい、これじゃゆきの立場がない。でも、とっさにどうやってとりつくろえばいいかわからず、「えっと……」と口ごもってしまった。
「あら、ゆきだってやってくれるじゃない。さおりちゃん、今日のこのシチュー、ゆきが仕込みまでやったのよ。わたしは帰ってから温めただけ」
「え」
あたしはゆきをまじまじと見てしまった。
「今日、試験終わって半日授業だったから、帰って支度したの。時間かかったー。さおちゃんが来るまでに間に合うか心配だったけど、ぎりぎりで終わった」
「そうなんだ。このシチュー、すごくおいしいよ。ゆき、すごいね」
普通にゆきのお母さんがつくったと思っていたので、あたしは本心からほめた。
「ちょっとしょっぱいかな、と思って薄めてたら量がふえちゃって。だいじょうぶだったかな」
「おいしいわよ。ねえ康彦」
ゆきのお母さんが弟くんに振った。
「おとといのよりはね」弟くんが特にいうこともないけど、という調子でいった。「あれはこげくさかった」
「あ、なんでいうのよ」ゆきがあわてた。「あのときは、ちょっと時間なかったし。まだ試験中だったから」
どうやら、事前にシチューの試作をしたらしい。それもテスト期間中に。
今日の約束でゆきに忙しい思いをさせたことを申し訳なく思ったが、うれしさのほうが勝った。
「ほんとうにおいしいよ。お代わりあるよね。あたしには味も大事だけど、量が大事なんだよ」
「うれしい。もちろん、いっぱいあるよ。どんどん食べて」
「あ、俺もお代わり」
あんたの分はないわよ、とゆきがいい、弟くんが「ずりー」と叫んでおばさんに訴えた。
うそよ、お姉ちゃん、ほんとうにいっぱい作ってくれたから、とおばさんが笑った。
こんどはあたしが何かつくってごちそうしよう、と思った。
料理のキャリアならあたしのほうが上だ。おばさんと、弟くんにも食べてもらおう。今は部活でちょっと時間とれないけど、いつか、必ず。
夕食後、何もしなくていいから座っていてといわれたがなかば無理やり食器洗いを手伝い、交代でお風呂に入った。
いっしょに入ろうといわれたらどうしようと思い、冗談めかして、いっしょに入る?と聞いたら、「うちのお風呂、せまいんだ」とまじめに返された。
それでも、人の家のお風呂で裸になるだけでもどきどきする。先に入らせてもらって、ゆきの部屋で待っているときも、今ゆきがお風呂入っているんだと思うと落ち着かなかった。
あたしはいつものジャージ、ゆきは水色のパジャマで、あたしたちはゆきの部屋でふたりになった。
厳しいゆき先生が、お風呂のあとも勉強しようというかと思ったが、やるだけやったんだから、あとは気分転換、英気を養って明日の備えましょうというありがたいお言葉をいただき、あたしたちはおしゃべりを楽しんだ。
「借りてたマンガ、そのままになっちゃったね。あれ、何度も読んじゃった」
「いいよね。宝塚でもやってるんだよ。見に行きたいな」
「全部女の人が演じるんだよね。男役も」
「それが宝塚だから」
「そうかあ。どんな感じになるのかなあ。女で、男として育てられ、それを女の人が演じる」
「その人を愛する男を演じるのも女の人」
「なんか、複雑だね」
「全員女、といってしまえば単純なんだけど」
「全員女といえば、女子高ってどんな感じ?」
「やっぱり、男子がいない分、どこかゆるいかな」
「校則はきびしいんだよね」
「そうなんだけど、規則と関係ないとこで、だらしないというか。椅子に座ってスカートばざばさしたり、生理用のナプキン机の上で貸し借りしたり」
「うそ」
「体育の着替えも教室でするから、恥じらいとかなくなっていくね」
「確かに、男子の目があれば、どこでも着替えができるわけじゃないし」
「私は中学のときのことしかわからないけど、休み時間に女子どうしで話していても、どこか男子を意識している子って多かったじゃない? 私は全然無関心だったけど」
「うちの学校はまさにそうだね。女子としゃべっていても、背中でうしろにいる男子の気配を全力で吸収していますという子がけっこういる」
「私たち女子高でも、お互いのことを気にしないわけじゃないんだよね。むしろクラスで自分がどんな位置にいるか、みんなすごく気にかけている。自分の名前が話題に出てないか、誰がどの子の話を誰にしているのか」
「悪口?」
「直接の悪口はさすがに教室でいわれることは少ないかな。せいぜい、あの子、だれだれさんと仲いいけど、無理してるよね、とか。そういうのは共学でもいっしょ?」
「うーん、あると思うけど、あたしの感じだと、男子を背中で意識してる子って、他の女の子に気が向いていない、アンテナが働いていないように見えるんだよね。あるとすれば、気にしてる男子がどの子を意識してるか、そいつを他に誰が狙っているか、とか」
「そうだねえ。自分の獲物をだれが狙っているかっていう緊張感は、うちらの学校にはないかな」
ゼロかどうかわかんないけど、とゆきが笑った。
え。まさか、あんたが誰かに狙われているとかじゃないよね。
一瞬浮かんだ疑念を切り返すようにゆきが続けた。
「さおちゃんは、その後どうなの?言い寄ってくる男はあいかわらず?」
「前に髪切ったら、ぴたっと誰も言い寄って来なくなった、っていったけど、あたし、いや、あたしだけじゃなくて、部活やってる子たちって、どんどん女から離れていってるみたい。なりもこんなジャージばかりだし、部室なんかもすっごく汗臭くて、女らしさとかかわいらしさとか、そういうの入り込む要素がないんだよね。変な先輩がいてさ、ブラもこういうデザインのもの以外認めない、って地味なやつ強制してきて。あたしも別にそこでがんばろうとは思わないんだけど、ゆきと会うとさ、自分があんまりかな、と思っちゃって」
「さおちゃん、ぜんぜん変わってないよ。ううん、高校入ってずっときれいになった」
「だって、こんな頭で?」
あたしは頭のてっぺんの毛をさらさらとなでた。ようやく伸びてきたが、試験終わったらまた切りに行かなくてはならない。
「ほら、このマンガの人にそっくり」
ゆきが新しく買ったらしい少女漫画のページを開いて、そこに大ゴマで描かれている花をしょった登場人物をさした。
確かに髪の毛は短い。御切れ長で黒い瞳に、長いまつげ。すらりとした姿。
うん、あたしに似ていないこともない。
うん?
「ちょっと、これ、男じゃん!」
「あれ? そうだったかな」
ゆきがマンガを開いて、そこに隠れるように顔をうずめた。あっ、それじゃマンガの男に顔がくっつく。
「マンガ、あたしにも見せてよ」
無理やりゆきの手からマンガを取り上げた。
ゆきが自分のベッドに入り、あたしは横にふとんを敷いてもらって横になった。
いつまでも話していたかったが、あたしは明日テストだ。せっかくゆきに見てもらった勉強を無駄にしたくない。
ゆきがあかりを消した。カーテンを通して、外の街灯の光が部屋の中をぼんやりと照らしている。
「さおちゃん」
ベッドの中からゆきの声がした。
「なに?」
「あのね、南沙織のポスターなんだけど」
「うん」
「私、ずっと大ファンで」
「知ってる」
「さおちゃんが、おんなじ名前で、さおちゃんもファンだっていってくれて、すごいうれしかった」
「それも知ってる」
「だから、さおちゃんと会えなくても、ポスター見ていると、さおちゃん見ているような気がして、いつでもいっしょにいるように思って」
「うん」
あたしは鼻の奥がつん、とした。
「でも、やっぱりさおちゃんじゃない」
「え?」
「だから、はがした。私が見ていたいのは、さおちゃんだから」
「……」
「南沙織ちゃんだって、身代わりにするのは失礼だし」
それは、スターをあたしの身代わりにしたら、失礼だよ……。
「あとね。私の部屋に、他の女の人のポスター貼ってあるの、さおちゃんに見られたくなかった」
そっか、と返事をしようとしたが、声がかすれた。
胸がいっぱいになり、いつもと同じ熱い塊がのどの奥からおなかを通って脚の付け根に降りていく感覚が襲ってきて、あたしはこぶしをそこに押しあてた。近頃は自分でも慣れた行為だが、今夜はゆきの部屋だ。
あたしは毛布をはねのけて上体を起こした。ベッドのほうを見て、「ゆき」と声をかけた。
そっちへ行ってもいい? キスとか、してもいい?
「お休み」
あたしが何かをいう前に、ゆきは反対側を向いて毛布を頭のすぐ下まで引き上げた。
あたしはしばらく身動きができず、五分ほど布団の上で体を起こしたまま、ゆきの寝姿を見ていた。
あたしは、意気地なしだ。でも、それでよかったかも。
胸の鼓動が少しずつおさまり、小さく深呼吸して、あたしは体を横たえた。
ゆきに背中を向けるようにして、目をつぶった。
急に涙があふれてきた。
あたしは、悲しいのだろうか。うれしいのだろうか。
なんだかわからなかったが、涙が体の芯にある熱をしずめてくれたようだった。あたしはそのまま眠りに落ちた。
夢を見たかどうかは、おぼえていない。
3 石つぶて
平均点を越える成績をおさめることができた試験のあとは、ひたすら部活、部活、部活の毎日だった。
猛練習と、友だちとの約束もままならない生活の集大成となった夏の大会で、バレー部は県大会三位という成績を収めた。
あれだけ練習をした先輩たちの、さらに上がいたことにあたしは驚いた。
バレーボールのうまさという点では、たぶん強豪といわれる学校の差はほとんどない。違うのは個々の体格だ。高校バレーでは、身長が高いことが最大の武器になる。今年優勝、準優勝したチームのレギュラーの平均身長は、うちの学校より五センチ以上高かった。ブロックの上からスパイクを打たれて、死ぬ気になってレシーブで拾いまくっても、返す球がことごとく高いブロックにはね返される。そうやってできた差は、試合が終わるころには埋められない大きさとなり、勝ち負けが決まる。
それでもやりきった三年生は、さっぱりと引退して、これからは二年生と一年生でまた部活の歴史をつないでいく。
入学以来、基礎練習と球拾いが中心だったあたしたち一年生も、ひとりひとりがボールに触れる時間が格段に増え、本格的なチームプレイにも組み込まれていくことになる。
ひとことでいえば練習はきつくなったのだが、雲の上の存在だった三年生がいなくなると、部活内は明らかに雰囲気が軽くなった。
張り切った二年生は、部の中を自分たちの思うように模様替えしようと、それまでの部の規則を緩めることを決めた。
髪型は、校則にのっとり、長さは自由。もちろんプレー中はじゃまにならないように縛る。下着も動きやすければ何着てもOK。
男女交際も、練習に差し支えなければ可。
この方針が伝えられるや、部員全員美容院にかけこみ、彼氏づくりに走り出す、ということにはならなかった。
髪の毛はすぐには伸びないし、いきなり男子に告白したって相手の都合もある。ただ、練習後に他の部活の男子と帰る部員はちらほらいた。解禁になってすぐにつきあい始めた子もいるだろうが、それまで内緒にしていた交際をオープンにした子もいると思う。
そういう例をうらやましく思いながら、部員の多くはそれまでと変わらないバレー漬けの生活を送っていた。
あたしについて言えば、交際解禁のうわさを聞いたのか、男子バレーの先輩が、つきあってくれと申し込んできた。
あたしはていねいに断った。好きな人がいるので、と言って。
うちの学校のやつ?と聞かれ、いいえ、と答えるとそれ以上の詮索はされなかった。
夏休みも部活は続いたが、お盆には練習が休みになった。
久しぶりにゆきと時間を気にせずに会うことができる。
電話以外では、期末テストの前に図書館でいっしょに勉強をしたくらいで、合唱部にいるゆきもそれなりに忙しく、あたしのすき間時間に合わせるのが難しくなっていた。お盆はゆきもお休みだ。
遊園地に行きたいねえ、と電話で計画を話し合ったが、暑いのと人出が多そうなこともあって、ゆきの体も心配なので、無難に買い物に行くことにした。
駅で待ち合わせてターミナルのあるK市まで電車で移動する。
ゆきは胸元がふわっとしたワンピース、あたしはさすがにジャージというわけにもいかず、Tシャツとジーンズにした。
「さおちゃん、やっぱりジーンズ似合うね。すごく脚長い」
「スカートはいて来ようと思ったんだけど、考えてみたら高校入ってから新しいの買ってなかったんだ。中学のだともうはけないし」
「背、伸びたよね。バレー部でも高いほうじゃない?」
「ぜんぜん。うちの部はあたしより大きい人何人もいる。それでも県のバレー部ではふつうの平均身長なんだ」
あたしは身長差で負けた(それだけではないかもしれないが)、夏の大会のことを話した。
「そうかあ。でもさおちゃんだって、私と並ぶとほら、私さおちゃんの鼻くらいだよ。中学のときはこんなに差がなかったのに」
「ゆきは小さく見えないね。なんでだろ、顔が小さくて、バランスとれてるから?」
「なんか、中学生のままみたいだね、私」
そんなことない。
あたしはワンピースを押し上げているゆきの胸に目をやった。
いつもなら、ここでゆきが、また胸見てる、とかいうのだが、今日は知らん顔をしている。
あたしたちは洋服や、雑貨の店をのぞいては、あれがいいとか今度買おうとかいうだけで、ほとんどお金を使わなかった。
ふたりともアルバイトをしていないし、お小遣いをそんなにたくさんもらっていない堅実な家の娘なので、無駄遣いはしない。
でも、お金があったら、と仮定して、あれは買いだ、とか、これはお金をどぶに捨てるね、なんて会話をするのは、そんなに貧乏くさい気はしなかった。
本当は欲しいのにお金がなくて買えず、やせがまんしていたら辛いかもしれないが、ゆきと歩いているだけであたしは満たされていた。
ゆきも、これ、さおちゃんに似合いそう、とはいっても、執着を見せない。
あ、こっちもいい、この色もすてき、と次々に目を移して、しまいには、
「ま、さおちゃんはさおちゃんだけで完結してるから、いいか」
とまとめてしまう。
あたしは買い物より、ゆきのそのことばがうれしかった。ほんと、お金を払いたいくらいだ。
「さおちゃん、あれ見て」
ゆきが特設売り場を指さした。「水着売ってる」
「なに、ゆきってば、水着買いたいの?」
「中学のときのしか持ってないから。ねえ、一緒に見て行かない?」
水着か。あたしも高校生用のものは持っていない。ゆきはどんな水着欲しいんだろう。
ビキニとか?
派手な色の小さな布切れがハンガーに踊っていた。あたしはその水着を着たゆきを想像した。
「だめ!」
「え」
「水着はだめ。ゆきにあんなの着せられない」
「あんなのって?」
ゆきはあたしが突然怒り出したので驚いていた。
「とにかく、ここはだめ。行こ」
あたしはゆきの手を引いて強引にその場所から離れた。
「さおちゃん、水着買うの、いやだった?ごめんね、変なこと誘って」
ゆきがしょんぼりとした声を出したのであたしは慌てた。
「あたしこそ、ごめん。でも、ゆきにはああいう水着はまだ早いよ」
「だから、ああいう水着ってなんのこと?」
「ビキニとか」
「私、ビキニ買うの?」
「だから、それはだめだって」
むきになってゆきの顔を見たら、思い切りにやついていた。
「さ、お、ちゃん」ゆきがゆっくりと顔を近づけてきた。
「なに想像してたの? もしかして、私のビキニ姿だったりして」
「そんなわけないでしょ。ああ、もう暑い」
あたしは顔を手でひらひらとあおいだ。
「こんな暑くちゃ、黒焦げになっちゃう。なんか、冷たいもの飲もうよ」
ゆきがけらけら笑い、あたしもつられて笑った。
あたしにだけ見せてくれるなら、ビキニ買ってもいいよ。
そう口に出してしまいそうになり、あたしは思い切りむせたふりをした。
「あそこにかき氷のお店出てる」
あたしたちは、神社の境内の前を歩いていた。
屋 台でかき氷を売っている。いちごとメロンの氷をそれぞれ買って、あたしたちは神社の鳥居の前の石段に座った。
「去年、ここで倒れたんだよね」
ゆきが懐かしむようにいった。
「あれは、おどろいた」
昨年の祭りの夜、うちの店で出していた屋台の前で、友だちと来ていたゆきが気絶して倒れた。
すぐに意識はもどったが、頭を打っているかもしれないので、店にいた兄が救急車を手配した。
搬送されてそのあとどうなったのか、しばらく様子がわからなかったが、ゆきのおばさんがうちを訪ねてくれた。手紙をそえて。
「あのとき、さおちゃんにもらったお守り、うれしかった」
「ご利益あったよね」
「お参りして行こう。お礼参り」
「よくもひどい目にあわせてくれたなってやつ?」
「そんなわけ、ないでしょ」
ふたりで並んで、お賽銭を奮発して100円ずつ上げて、あたしたちは手をぱんぱんと合わせた。
ゆきを治してくれてありがとうございます。高校も合格ありがとうございます。それから、ゆきと仲良くなれて、ありがとうございます。これからもずっといっしょにいられますように。
声に出さずにそんなお願いをしていると、そのさらに奥のほうで、(ゆきを誰にもとられませんように。ゆきが水着を買ってほかの人に見せたりしませんように)という黒いお願いがわいてきてあたしは必死にそれをおさえようとした。
神様の前で、考えてはいけないことのように思えたから。
その考えをふりはらうように、「何をお願いした?」とゆきにきいた。
「病魔退散、学問成就」
ゆきはお守りのご利益をそのまま上げた。
「そして大事な大事な、恋愛成就。これはかなったから、これからもお守りくださいってお祈りした」
あたしは幸福感にのぼせそうになった。「ゆきの恋愛は成就したんだ」
「うん。さおちゃんのは?」
「あたしのも成就した、と思う……」
「じゃ、よかった!」
ゆきがあたしの腕に抱きついてきた。ゆきの汗を肌に感じてあたしは本当に頭がくらくらしてきた。
「ちょっと、さおちゃん大丈夫? 顔すごい真っ赤」
「平気平気」
ハンカチをおでこに当てる。確かに熱いかもしれない。日射病で今度はあたしが神社で倒れたらしゃれにならない。
ゆきと一緒にいるのは体にはよくない。何しろ、ずっと心臓がどきどきしっぱなしだから。
夏休み最後の日、夕方で終わった練習の片付けをしていると、2年の先輩に呼ばれた。
部室棟のいちばん奥、用具室の裏で、いかにも人に聞かれたくない話をされる場所だった。
早い話、なんらかの制裁を受ける場所。
先輩はエースアタッカーで、一年のときからのレギュラーだ。私より十センチ身長も高い。たぶん、今期のうちの活躍を決定づけるプレーヤーであることはまちがいない。そして美人。
あたしが何かしでかしたのか。
練習に身が入っていないとか。規則のことかもしれないが、髪の毛ものばしはじめたばかりでまだ結べるほどでもない。
先輩はいじわるな人ではなく、むしろ後輩たちにはやさしかった。一年生の中には、女子でありながら憧れを口にするものもいる。
もしかしたら、そういう話?
あたしが下を向いて神妙にしていると、先輩がふだんとはまるで違う低い声を出した。
「斎藤くんに告白されたって?」
男子バレーの二年生だ。それを怒られる? 男女交際の規則違反?
でもあの規則はもうなくなって、第一あたしは。
「お断りしました」
「そうだってね。なんで?」
「斎藤先輩のことは、よく知りませんし。練習もいそがしいし、その、あまりおつきあいとか、よくわかりませんし」
「つきあってみればいいじゃん。斎藤くん、いいやつだよ。やさしいし、バレーうまいし。つきあえば好きになれるよ」
なんでそんかことあたしにいうんだろう。人が誰とつきあおうがどうしようが、関係ないでしょ。
「好きでもない人と、つきあうのはちょっと」
「時間のむだ?」
「いえ、そういうことでは」
あたしはなんで責められている? この人は、何を怒っているのだろう。
そう、怒っている。先輩は、やさしい言葉遣いをしているが、確かにあたしに怒っている。
「あんた、そうやって男からの告白、かたっぱしから断ってるんだって? なんで? ほかに好きなやつでもいるの?」
「……はい。斎藤先輩にもそう言いました」
「誰?ほかの部?」
「いえ」
あたしがそこで口をつぐむと、先輩もだまり、あたしが話すのを待つつもりのようだった。
沈黙が少し続いて、先輩が声の調子を変えた。
「まあ、いいか。あんたを責めても斎藤くんがあたしに目を向けてくれるわけじゃない」
そうか、先輩は斎藤先輩が好きなのか。だからあたしの気持ちを確かめようとしたんだ。
「悪かったね、時間とらせて」
「いいえ。あたしのほうこそ、生意気言ってすみませんでした」
「あんたみたいなモテる子は、さっさとだれかとくっついてくれたほうが周りが安心するんだけどね」
そういったことをいわれて、だまったままでいられるほど、あたしは理性的な性格ではない。
だから、つい余計な言葉を返してしまう。そしてその結果は、たいてい相手の気持ちをこじらせる。
「先輩のほうがずっとすてきです。一年生、みんな言ってます」
「あらま。そうはっきり言ってくれるのは後輩だけね」
先輩はちょっとさみしそうに笑った。
「でも、あたしみたいな大女は、男子には人気ないのよ。文字通り、『敷居が高い』とか『高嶺の花』。斎藤くんてっさ、あたしよりも背高いじゃない。釣り合っているって、もしかしたら思ってくれてるかな、なんて期待したりしたんだ。そのために部の規則もゆるめさせたしね」
あれは先輩の発案だったのか。男女交際解禁は。
「そうしたらさ、あんまり背の高い女は苦手なんだって。帆波くらいがちょうどいい、って。失礼しちゃうよね」
そんな男、忘れてください。先輩にはもっとすてきな人できますから。
なんだったら、そうだ、うちの兄なんかどうですか。そこそこ背高いし。料理もうまいから、お買い得ですよ。
そんな軽口を叩いて、先輩をはげまそうとしたら、先輩が、なにげなく聞いた。
「あんた、もしかして、レズってこと、ないよね?」
「え」
「女が好きってこと」
顔から血の気が引くのが自分でもわかった。
「帆波が男の子に興味ないのは、レズだからじゃないか、て噂してる子がいたから。そんなこと、ないよね?」
もちろん、そんなわけ、ないじゃないですか。
そういうべきだったし、そういおうとした。でも、言葉を出そうとしたら、ゆきの顔がだん、と頭の中でふくらんで、あたしは声を失った。
だって、もしあたしが、女の子なんて好きじゃありません、そういったら、あたしとゆきは、なんでもなくなってしまう。ゆきを手放してしまう。
あたしがうつむき、何もいわないでいると、今度は先輩の顔色が変わった。
「ちょっと……やだ、もしかして、そうなの? ただの噂じゃないの?」
「ちが……」
「やめてよ!」先輩がどなった。そして、あたしから身を遠ざけるように一歩下がった。その逃げ方に、あたしは傷ついた。
「いやらしい! なんで黙ってるのよ。女が好きなへんたいです、って、なんでいわないのよ!」
そう、いわれるから。
女である自分が、女を好きだといえば、それは変なことだと、人にいわれるから。
だから、黙っていた。女を好きだといえば必ず人からおかしいといわれると、あたしは知っていたのだ。
『知っている自分』を知らないふりしていた。自分が隠そうとしていた負い目だけでなく、それを隠そうとしていた自分の卑劣さに、あたしは気づいてしまった。
あたしは逃げ出した。
先輩は追ってはこなかった。部室に戻ることもできず、そのまま家に帰った。
誰とも話したくなかった。
ゆきからの電話があっても出られなかっただろう。
この頃、『レズという言葉』は女同士のエロティックな関係をさす、というのが大方のとらえ方だった。
男女の恋愛には性愛のほかに心と心の結びつきが存在する。体だけの男女関係は恋愛ではない、というのが、高校生のあたしの感覚だった。
ところが『レズという言葉』からは、女同士の裸のからみあい、という連想しか浮かばなかった。早い話、ポルノのひとつだと見られていたのだ。先輩が「いやらしい」と嫌悪を示したのも、まさにその部分だろう。
男女の恋愛であれば、高校生だって性行為に及んでいるカップルはいくらでもいるだろうが、早すぎると眉をしかめられることはあっても、行為そのものが嫌悪されることはない。男と女の行為は、誰でもすることだから。
女同士でも、心のつながりは、友情であればみんなに認められるだろう。それがエロスを伴った瞬間、心のつながりは脇におかれ、自分たちの経験したことがないし、これからもするはずのない「女同士の性愛」だけが取り上げられ、興味本位に、あるいは汚らわしいものと見られる。
レズビアンでなく、レズと縮められると、侮蔑的に受け取める人もいるという理解も、このころはほとんど広まっていなかった。
性のマイノリティに理解を示す人は、この頃はまだ少なく、高校生のあたしの周りにもそんな考えを口にする人は見当たらなかった。
投げつけられたレズという言葉の石つぶては無知なあたしを打ちのめした。
あたしは、レズではないです。そういいたかった。
でも、女の人を性の対象として見てるわけではありません、ときっぱりいい切れないのも確かだった。
だって、ゆきを見ている。ゆきの唇、ゆきの胸、そこに触れたいという気持ちは、もう自分に隠すことができない。
その欲望がなければ、もっと堂々とゆきへの気持ちを宣言できるのだろうか。
あたしは女の人が好きなんじゃない、ゆきが好きなんだ、と。
この気持ちを、レズという言葉でひとくくりにしないでくれ、と。
二学期の最初の日、始業チャイムが鳴る前に、女子バレー部の先輩があたしの教室に来た。廊下に呼び出され、ごく短く、「部をやめてくれ」といわれた。理由は聞くまでもない。いってほしくもなかった。
下を向いてだまってると、先輩は痛ましそうに顔を少し歪めた。
「みんなにはいわない。だからわかって。いっしょに着替えとか、無理でしょう?」
あたしは変質者扱いされている。これまで、バレー部の女子部員に変な気持ちを抱いたことはない。自分の体を見るように、下着や胸が目に入っても何も感じない。
そういっても、信じてもらえないかもしれないが。
「あんたも、そのうち男の子好きになるよ」
その優しげな言葉であたしは引導を渡された。
「わかりました。バレー部やめます。お世話になりました」
あたしは頭を下げて、教室に戻った。
その日は普通に授業を受けたが、先生の言葉はひとつも耳に入ってこなかった。あたしはただ座って、前を向いて、笑うでも泣くでもなく、時間の過ぎるのを待っていた。
放課後、まっすぐ家に帰るとあたしはベッドで布団をかぶり、兄が録音してくれたカセットの音楽をイヤホンでずっと聞いていた。日本語の歌は恋愛をうたったものばかりで気持ちがさらに滅入り、意味の分からない洋楽を聞き続けた。
夜、大学に行く前に兄が部屋の扉をあけて、「なんだ、帰ってたのか」と驚いたようにいった。
「てっきりクラブかと思ったから、さっき、ゆきちゃんから電話かかってきたけど、まだ帰ってないって言っちゃったぞ」
ゆき。
ゆきと話したい。ゆきの声が聞きたい。
強烈にそう思ったが、電話でもいまはゆきと話ができそうもないとわかっていた。
兄が出かけたあと、電話が何回か鳴ったが、あたしは耳をふさいでその音を聞かないようにした。そのたびに、しつこく鳴り続けることはなく、ベルはそっと止んだ。
あたしがバレー部を辞めたことを一年生部員はみんな残念がった。あたしが辞めた理由は、「家の事情」ということになっているらしい。
「いろいろ大変だと思うけど、落ち着いたらきっと復帰してね」
やさしい言葉をかけてくれる子が、あたしが『レズ』だと知ったら、どんな顔をするのだろう。先輩は、いつまで黙っていてくれるのだろう。バレー部のほかの部員やクラスの子たちが、あたしが部活を辞めた本当の理由を知ったら、あたしは学校にいられるだろうか。
部活がなくなると、放課後やることもない。
家に帰れば夕食の準備をしている兄と顔を合わせる。時間もあるし、あたしが代わればいいのだが、兄に部活を辞めたことを告げるのが億劫だった。
なんとなくいやになっちゃって、というには、これまであまりにも熱心にやりすぎていた。何か問題があったからだろうと思うにちがいなく、適当な言い訳が思いつかなかった。もちろん、本当のことなど言えない。
ゆきに対してはなおさらで、あたしはいちばん話を聞いてもらいたい相手を遠ざけることに気を使わねばならなかった。
ゆきが好き、という気持ちが、女の子が男の子に恋焦がれる気持ちと同じものなのか、男を好きになったことがないのでわからない。
誰かにこの思いが「普通の」恋愛と同じものだと認めてほしいわけではない。
好きな子がいるというだけで生きていて楽しく、その子といっしょに過ごす時間がこの上なく大切に思える。
そして、たぶんゆきもあたしのことを好きでいてくれている。中学卒業のとき、ゆきが、それまで出なくなっていた声をふりしぼるようにあたしにすき、といってくれたとき、あたしは自分が美人でほんとうによかったと思った。ばかだと思われるだろうが。
スターの南沙織を好きだという、本人もとびきりのかわいい子が、女に気持ちの悪い告白をされて、拒否しないでくれたのは、あたしが美人と呼ばれる容姿を持ち合わせていたからで、あたしという人間を、外も中も丸ごと受け入れてもらった、と思うほどの自信家ではないから、あたしは自分の中の醜さを隠そうとしていた。
ゆきの胸を、体を見たいという好奇心。思い切り抱きしめたいという衝動。唇を吸ってみたいという欲望。
そういうものは、ゆきが受け入れてくれるはずのない、あたしの中の腐った影だ。その汚いものを抱えているあたしは、『レズ』とあざけられるにふさわしいへんたいかもしれない。でも、あたしの中には、ゆきを、誰よりも愛しいと思う心だってある。男と女の恋愛に、心と体の結びつきがあるなら、あたしたちにだって、そのふたつの結びつきは許されるのではないか……。
いや、ゆきはきっとそうではないだろう。あたしを好きだといってくれた気持ちは、きっとこの上なく気高いところから出てきている。あんなに純粋できれいな子が、女への肉欲なんか持っているわけがない。あたしが思うような感情を、あたしの体に感じているなんてありえない。
そう思った瞬間、あたしは体の芯にいつもの熱を感じた。
ほら、ゆきがあたしに欲情しているところを想像して、また、あたしはあの子を汚した。ゆきの心を裏切った。
あたしには、あの子といっしょにいる資格なんかない。あたしのあの子に寄せる感情は、きれいなものでもなんでもなく、ただ肉体への欲望だけなのではないか。あたしは、やっぱりそういう『レズ』なだけ、の女なのではないか。
家に帰りたくなくて、町をぶらぶら歩いた。ゆきと二人だとしょっちゅう男に声をかけられたが、ひとりで制服で歩いていると案外ほっとかれるな、と思っていたら、二人連れの男に声をかけられた。
「どうしたの、そんなに怖い顔して」
「自殺とかだめだよ。やめときな」
髪を首まで伸ばした男と、オールバックのひげを生やした男。
「怖い顔は生まれつき。放っといてよ」
「こわー。だから、そんな怖い顔するなって。美人が台無しだよ」
「楽しい顔にしてあげるからさ、ちょっとつきあわない」
今までなら、適当にあしらってさっさと立ち去った。今日は足が動かない。
このまま、こいつらについて行ったら、どうなるんだろう。何かされるのかもしれない。
そう思い、こわくなったが、一方でどうなってもいいという気分もわいてきた。あんたもいつか男好きになるよ、という先輩の声がよみがえった。これもそのチャンスのひとつかも。
「その制服、U高だよね。友だちにU高出たやついるよ」
ひげの男がそういってあたしの肩に手を置いた。その瞬間に全身に鳥肌が立った。
「やめて」
「ああ? 何もしてねえだろう」
「これからデートだから。悪いけど」
そう言っていきなり走り出した。
「おい、待てよ!」
もちろん待たないし振り向かない。追いかけてきたかどうか、わからなかったが、繁華街を、あたしは制服のまま部活で鍛えた脚力を存分に発揮して走った。
冗談じゃない、あんな汚い連中といっしょにいられるか。
男をうっとおしいと思うことは何度もあったが、体に触れられて悪寒が走ったのははじめてだった。今まで気にしたことがなかったのかもしれない。電車通学している同級生は、痴漢に会った話をときおりしていて、その悔しさ、不愉快さをさかんに訴えたが、あたしはそれほどの満員電車を使わないので、これまで痴漢の被害とは無関係だった。さっき男に制服の肩をさわられたときの不快感を思うと、痴漢の気持ち悪さは想像を越える。
もし、それが好きな人からのタッチだったら、どうなのだろう。あのひげの男。目が細くあごがとがり歯並びもがちゃがちゃのあの男を好きになることはありえないとして、もし歌手のようなかっこいい男に、ふたりきりで触られたら、全然別の感覚なのだろうか。
家に帰ると、兄が誰かと電話中だった。
ただいま、といって脇を通り抜けようとしたら、兄があたしの腕をつかんだ。
さっきのことを思い出し、ぎくりとしたが、別に兄に触られたところからなんの感覚も生まれてこなかった。ただ、だれかにつかまれた感じだけ。
「いま、帰ってきた。代わるよ……おい、ゆきちゃんから」
兄が押し付けてきた受話器をあたしはすぐには受け取れなかった。
いないっていって、とはもはや言えない。あたしは受話器をにぎった。
『よかった、さおちゃんとやっと話せた』
待ち焦がれていたゆきの声が耳をくすぐる。
『何回か電話したんだけど。部活、忙しいんだね。体は大丈夫?無理してない?』
「うん、ちょっと練習……きつくなって……」
『そうか、そうだよね。U高バレー部、強いもんね。どうなの、さおちゃん、レギュラーになれそう?』
「なれるといいけど……むずかしいかな」
『さおちゃんならなれるよ。先輩にだって、負けないよ』
「そんな、あたしなんて」
あたしの反応がはかばかしくないのでゆきが調子を変えた。
『疲れて帰ってきたのにごめんね。あのね、今度の土曜日、私U高に顔出すんだ。うちの合唱部が参加する市内の合唱祭の打ち合わせ会があるの。土曜日の午後なんだけど、そのあと、さおちゃんの練習見せてもらっていい? もし練習早めに終わったら、いっしょに帰らない?』
「だいじょうぶ、だと思うけど」とあたしは答えてしまった。「先輩に聞いてみないとわからないけど」
『高校入ってからのさおちゃんのバレーボール、まだ見たことなかったから。まあ、試合に出るようになったら応援に行けるんだけど』
「ゆきに、かっこ悪いところ、見せられないな」
あたしは無理に笑って、電話を切った。
部活辞めたなんて、とても言えなかった。
4 歩く姿は
ゆきに会いたい、でも今の自分を見られたくない、という正反対の感情を行ったり来たりするうちに神経が参ってきて、ろくに眠れなくなった。
学校も行きたくなかったが、さぼると陰で何かいわれるような強迫観念がおそってきて、寝不足の体を無理やり学校へ運んだ。
消えてしまいたい、と何度も思った。
死ぬというほどの覚悟はなかった。ただ、誰にも気づかれずに透明になって、ゆきのそばにいられればいい。
あたしが変な目で見ていることはゆきに気づかれず、ゆきがあたしと同類のように思われることもない、傷つかず悩まないゆきを間近で見ていたい。
あたしが思いをかけている女の子のことは、うちの学校では誰にも知られていないはずだった。うちのバレー部にゆきを近づけなければ、ゆきは無垢のままでいられる。
土曜日になった。
県の合唱コンクール打ち合わせ会が、午後、あたしの学校で開かれる。
ゆきがK女子高合唱部の代表として来校する。そのあと、バレー部の練習を見学するつもりでいる。あたしがもういない体育館で。
体調が悪いから練習を休んだ、とゆきに伝えよう。バレー部を辞めた、と告げるのは先延ばし。適当な理由を思いつくまで、ゆきには黙っているしかない。
ゆきが体育館に行く前にゆきをつかまえようと思った。
せっかく練習見に来てくれたのに、ごめんね。そう言ってゆきを体育館から、バレー部から遠ざける。
他校の生徒は、来客用の入り口から校舎に入るだろう。
午前中の授業が終わり、部活動に参加しない生徒が下校する中、あたしは来客用の玄関前でいかにも人待ち風に立っていた。
『合唱コンクール打ち合わせ会場は、二階の視聴覚教室です』という案内が玄関横に張り出されていた。
他校の制服の男女がぱらぱらとやってきて、玄関前のあたしを物珍しそうに見ている。
あたしは、にっこり笑って、「ご苦労様です」とあいさつした。
みんなあたしがこの学校の合唱部員だと思っただろう。ゆきが来たらばれてしまうが。
他校の生徒がひととおり玄関に入っていったのに、ゆきの姿がなかった。
午後一時半から打ち合わせ開始、と案内に出ていた。あと十分で始まる。
いやな予感がして、体育館へ走った。
入り口にゆきがいた。
背中を向けてバレー部の子と何か話している。その子があたしに気が付き、なにかいうと、ゆきが振り返った。
ゆきが笑い、バレー部の子におじぎをして、こちらに来た。
「さおちゃん」
「ゆき、行こう」
あたしはゆきの手を引いて歩き出した。一刻も早くそこから立ち去りたかった。
「ごめん、今日はちょっと体調悪くて、部活休んだんだ。ゆきに伝えようと思ってお客さん用の玄関で待ってたんだけど」
「そうだったんだ。ごめんね。さおちゃん、体育館にいると思ったから」
「もうじき打ち合わせ始まっちゃうでしょ。終わるの待ってるから、いっしょに帰ろう」
「だって、さおちゃん、調子悪いんでしょう? 早く帰って休んだほうがよくない?」
「うん、調子悪いけど、それほどひどくないっていうか、そう、あれ。生理だから」
でまかせをいい、校門で待っているから、といってゆきと別れた。
ゆきと話していたバレー部員は、あたしのことをなんて説明しただろう。
あたしが辞めたということを、ゆきは聞いてしまっただろうか。
ゆきが会議をしている間、あたしは普段ほとんど入ったことのない図書室で時間をつぶした。
学校の図書室だからマンガなんか置いてない。それでも何か読めるものがないかと思って本棚を探して、『赤毛のアン』を手に取った。タイトルは知っているが読んだことはない。そういう本のひとつ。
ゆきが面白いといっていた。ゆきが面白いと思う小説を自分も読んでみよう。部活がなくなったから、時間はいくらでもある。
活字だけの本を読むのはひさしぶりで、最初は筋を追いかけるのに苦労するかなと思ったが、すぐに物語に入り込んだ。
外見も性格も全然ちがうのに、アンがゆきに重なったり、自分に思えたり、そうかと思えば相手のギルバートこそ自分だと確信したり、読み方としては普通じゃないかもしれないけれど、あたしは自分なりに想像力を駆使して読み進めた。
「そろそろ図書室閉めるんだけど」
図書委員の声におどろいて、時計を見ると、ゆきの会議が終わる予定時刻より30分も過ぎている。
あたしは、『赤毛のアン』を本棚に戻し、急いで校門に向かった。
ゆきは、校門で知らない男子生徒と話していた。うちの学校の生徒ではない。
「ごめんね、おそくなっちゃって」
「さおちゃん、だいじょうぶ? 休んでたんじゃないの?」
「ちょっと時間わかんなくて。だいぶ待たせちゃったね」
「じゃあ、ぼくは先に失礼するよ」
ゆきと一緒にいた男子生徒が止めていた自転車にまたがった。
「前川くん、ありがとう。音合わせの日によろしくね」
自転車が走り去ったあとを見送っているゆきの横顔が、いつもよりきらきらしている気がした。
「今の、だれ?」
「K高の合唱部の前川くん。今日打ち合わせでいっしょになったんだ」
「へえ。仲よさそうだったね」
あたしはいやな聞き方した。
「そんなんじゃないよ。合唱コンクールで、うちも男子校のK高もそれぞれ単独で出るんだけど、合同で混声合唱もやることになったの。その練習の日を相談してた」
「そうか……。女子高でも、そうやって男子との接点があるんだ」
「確かに、チャンスとかいって期待している部員もいるみたい」
ゆきは? やっぱり期待しているの?
さっきと同じように冗談ぽく聞けばいいのに、あたしはその質問が口にできなかった。 もしも、期待しているといわれたら、聞き流せる自信はない。
帰りの道で、ゆきはずっと合唱コンクールの話をした。
あたしは聞き役に徹していた。今まではあたしもバレーの話を返していたが、今は手持ちの話題がない。
ゆきの声を聞いているだけであたしは満たされていた。
ゆきの家に着いた。あたしの体調を心配して、ゆきが少し休んでいけば、と言ってくれた。
あたしはその言葉に甘えて、ゆきの部屋に上がった。
ひさしぶりにゆきに会ったのだ。少しでも長くいっしょにいたかった。
「弟くんは?」
「今日はサッカーの日。終わったらお母さんが迎えにいってくれる」
「サッカー始めたんだ。かっこいいね」
「どうだろうね。別にめちゃくちゃ上手いってわけでもないから。みんなやってるから自分も、ていう感じかな。すぐにやめちゃうかも」
その言葉があたしにずきっと刺さった。
あれほどいわずにいようと思ったことばが、ぽろっとこぼれた。
「あのさ……あたし、バレー部辞めたんだ……」
ゆきはしばらく黙っていたが、ほんとうだったんだ、と呟いた。
「U高のバレー部の子が、帆波さん部をやめたのよ、といったの。そんなはずない、なんでそんな、うそつくんだろう、って思ってたんだけど。さおちゃん、そのあとも何もいわなかったから、やっぱり何かの誤解だって」
「だまってて、ごめん」
ゆきは首を振った。
「さおちゃんの部活なんだから、さおちゃんがしたいようにすればいいんだよ。練習も厳しかったんでしょ」
そうなんだ、練習が辛くて辞めたんだ、と認めてしまえばそこで話は終わったのに、あたしは自分が根性なしで練習に音を上げたとゆきに思われるのがいやだった。
「練習がきびしいから辞めたんじゃない」
「それじゃあ、……何か、いやなことでもあった?上級生にいじめられた、とか。さおちゃん、もてるからそれを妬まれた、とか」
ゆきは冗談に持っていこうとしてくれている。あたしもそれにつきあえばいい。
たかが部活だし、辞めたことだって軽く流してしまえばいい。そう思って笑おうとしたら、口元がゆがんだ。
「部活辞めたのは、理由があるんだ」
「そうなの? 別に無理にいわなくていいよ」
「聞いてほしいんだ。ゆきに。でも、その前に、ひとつだけ、お願いしていい?」
「いいよ。秘密は守るから。誰にもいわない」
「そうじゃなくて。あのさ、キスしていい?」
「え」
「一回だけ、キスさせて。そうしたら、部活辞めた理由話す」
あたしは何をいってるのだろう。自分でも混乱していた。
でも、部活を辞めた理由、あたしが先輩に何といわれたか。そのあと、あたしがゆきに対してどんな思いを抱いていることに気づいたか。
ゆきが知ったら、ゆきはきっとあたしから離れていく。
そうなる前に、ゆきの唇に触れたかった。
それであきらめよう、と思った。
拒絶を覚悟した。あたしは目を閉じて、ゆきの返事を待った。
急に、頬に熱い息を感じた。目を開けると、ゆきの顔がすぐ目の前にあった。ゆきがあたしをまっすぐ見つめている。
いいよ。
かすれたゆきの声は現実だとは思えず、あたしは身動きができなかった。
ゆきが顔を近づけ、あたしの唇に唇を当てた。
唇のやわらかさを意識したとたん、あたしの体の中心で火がおこり、あたしは何も考えられなくなった。
ゆきの頭を抱いて、今度は自分から唇を押し付けた。
「ゆき……ゆき……」
なぜか頭の中で、校門で男子生徒としゃべっていたゆきの姿が浮かんだ。
いやだ。ゆきをとられたくない。
瞼の裏に光が走る。あたしはゆきを思い切り抱きしめた。
「さおちゃん、さおちゃん」
ゆきがささやく。その声を消すように、あたしはゆきの口を吸う。
逃れるようにゆきが顔を背け、大きく息を吸った。
あたしはゆきの胸に手を伸ばした。ふくらみに触れたとき、ゆきが体を固くした。
一瞬あたしも動きを止めたが、すぐに手を動かし始めた。
まだ着替えていない制服のブラウスの布地と、その下のブラジャーの手触り、さらにその先の弾力。
ゆきが胸を触っているあたしの手首をつかんだ。
「さおちゃん、だめ」
「ゆき、大好き」
「だめ。あたしたち、生理なんだから」
あたしは体の動きを止めた。
あたしの生理はでまかせだけど、ゆきはそうだったの?
あたしは力を抜き、ゆきの横に体を投げ出した。腕で顔をおおい、それから、あはは、と笑った。
「うそみたい。本当にこういうこと、あるんだ」
男が女の子に体の関係を迫ると、女の子が、今日、お客さんなの、生理なの、と断る。ラジオの投稿でときどき聞くしょうもないネタ。
笑ったあと、いっしょに流れた涙を指でぬぐった。
あたしは起き上がるとゆきの前に正座して手をついた。
「ゆき、ごめん。いやがることして。あたし、最低だ」
「こっちこそ、ごめんね」
なんでゆきがあやまるのか。
あたしの欲求に応えられなかったから?
ゆきにはそんな義務はない。あたしがゆきの優しさにつけこんだのだ。
あたしは部活を辞めた理由を説明した。ゆっくりと。自分で、その意味を確認しながら。
女を好きなのか、といわれて否定できなかったこと。
レズだといわれて、自分にも女の体への欲求があると気づいたこと。
それを知られたら、きっとゆきにも嫌われると思ったこと。
途中涙が止まらなくなり、何度かしゃくりあげて言葉につまった。
でも、一気にいってしまおうと思った。
ごめんね、ごめんね、と話の合間に何度もあやまり、ゆきはそのたびにあたしの頭をぽん、ぽんと叩いてくれた。
「さおちゃん」
話し終わったあたしがぼうっとしているとゆきがあたしの肩を抱いた。
「私、女の子が好きなさおちゃんが、好き。さおちゃんに好かれる世界一幸運な女の子が自分だなんて、信じられない。でも夢じゃないよね。さおちゃんが好きな女の子って、私でいいんだよね」
「ゆき……あたしのこと、気持ち悪くないの?」
「ばか」
ゆきがあたしの首に頭を押し付けた。
「私がさおちゃんでどんな妄想してるか、知らないでしょ」
ゆきからそんなことばを聞いて、あたしの思考は止まってしまった。
ゆきが顔を上げた。
ゆきがにこっと笑って、とんでもないことを口にした。
「さおちゃん、胸、さわる?」
「なに……?」
「生理だから、全部は無理だけど、胸なら、いいよ」
ちょっと待って。
全部って何? 胸ならいいって何?
ゆきがあたしの手を取って、自分のブラウスのボタンに触らせようとした。あたしは、 震える手で、ゆきのブラウスのボタンに手をかけて……そこで体を離した。
「ゆきはセッ……のやり方って知ってる?」
口ごもってはっきり言えなかった。
「セックスのこと?」
ゆきははっきりと口にした。
「なんとなくだけど……」
あたしは勇気を出して続けた。
「ほら、男と女は、やることって決まってるじゃん……女同士は、どうやるの?」
「えー、胸さわったり、下さわったり?」
「それだけ?」
「ほかに何かあるの?」
「わかんない」
「私も」
そこであたしたちは見つめ合い、ぷっと吹き出した。
ゆきがこらえきれないというふうにベッドに身を預けてきゃはは、と声を上げた。
あたしは無防備なゆきの胸にさっとタッチした。
「きゃ」ゆきが身をすくめ、「やったな」といってあたしの胸をさわろうとした。
「平気だよ。あたしの胸なんかぺらぺらだし、感じないもん」
「わからないじゃん」
ゆきが両手であたしの胸をさわさわとはくようにさわった。
びくん、と感じてあたしは慌てた。照れ隠しにゆきの体に手を伸ばした。
「ゆきー、襲っちゃうぞ」
「きゃーやめてー」
二人で制服を引っ張り合っていたら、玄関が開く音がした。おばさんたちが帰ってきた。
「ゆきちゃん、帰ってるんでしょ?荷物運ぶの手伝って」
あたしたちは顔を見合わせた。
部屋でこそこそえっちなことを高校生がしていると、親が帰ってくる。これもよくある、お約束だ。
声を出さずにふたりで笑い、それから軽く唇を合わせた。ほんの、あいさつのように。
「おかえりなさい。さおちゃん来てるんだ」
部屋を出ていくゆきの制服の後姿を見ながら、あたしは次のチャンスまでに女同士の愛し合い方を調べておこうと思った。
生半可な思いでゆきを汚したくないけれど、ゆきとはきちんと『最後』まで行きたかった。まだ時間が必要だというなら、待ってもいい。いつまで我慢できるかはわからないけれど。
女に欲望を抱くのがレズだというのなら、もうあたしはレズ(ビアン)でいい。
でもあたしはちゃんと女を好きになる。女に恋するレズ(ビアン)になる。
いつか、女を心も体も愛する女が、気持ち悪いなんていわれない世の中が来るかもしれない。それまでは、堂々と隠れていよう。胸を張ってうそをつこう。
だって、抱きたいと思う子が、あたしのことを抱きたいと思ってくれている、なんて。女への欲望を、受け入れてくれるといったのが最愛の子だ、なんて。
そんな、うれしくて恥ずかしくて誇らしいこと……。
誰に聞かせられる?
(了)